渡邉雅子『論理的思考とは何か』
本書は、アメリカ・フランス・イラン・日本のエッセイ教育の分析を通して、著者の言うところの「論理」の多様性を明らかにするものである。著者はアメリカ留学時代にエッセイでよい評価を得られず苦労したが、アメリカ式の「論理的な」エッセイの型を体得することで、英語力自体を飛躍的に向上させることなくたちまちエッセイで高評価を得られるようになったという。しかし、留学生はそれぞれ自国の文化の中で育まれた作文の型(筆者はそれを「論理の型」とも呼ぶ)を持っており、その文化の中ではその型に沿った文章が高く評価される。終戦以来アメリカの強い影響下にある日本では、アメリカ式の考え方が唯一不変の「論理的」なものと見なされがちだが、著者はそれを相対化し、各文化固有の「論理」を尊重しそれらを使い分けることを推奨するのである。
注意したいのは、本書が主題とする「論理」は、形式論理学におけるそれとは異なるという点である。本書では、カプランを援用して「論理的であること」を次のように定義する。
論理的であること=「読み手にとって記述に必要な要素が読み手の期待する順番で並んでいることから生まれる感覚である」→ 論理的であることは社会的な合意の上に成り立っている(p.51)
たとえばアメリカのエッセイであれば、最初に主張が述べられ、それを支持する3つの根拠が提示されたあと、結論として冒頭の主張が別の言葉で言い換えられるのが優れたエッセイとされる。これは文章の構成要素の「順番」を指定する規範である。また、主張は「私は……考える」という意見の形で述べられ、根拠は科学的データや経験的事実などが好まれる。これは「必要な要素」の指定となる。
他方、論理学における演繹的推論は真理保存性を持っている。これは「前提が真ならば結論も必ず真」という性質のことである(なお、本書でも紹介されている一般から個別への推論という意味の演繹は現代の論理学や科学哲学では用いられないので注意)。結論が「必ず」正しいというのは非常に強力であるが、学問分野においても論理学や数学から離れるほど演繹で議論を積み重ねられる部分が少なくなっていく。人文系の学問の議論などはほとんど演繹がなく、理数系の人からすれば驚くほど曖昧に見えるだろう。ビジネスや日常生活においてはなおさらである。それでも学問である以上はなんらかの論理性が要請されるし、日常においても人を説得するために論理的な文章が必要になる場面がある。
そうすると、演繹でない論理的思考は、もはや〈筋が通っている〉〈説得的である〉程度の意味で捉えられることになる。そして日本においては、上述のアメリカのエッセイの型に反映される思考法が論理的思考とされることが多い。筆者が疑義を提示するのはこの曖昧な方の論理的思考である。フランス・イラン・日本の作文の型とその教育目的を分析することで、アメリカ的思考以外の論理的思考のあり方が提示される。
私は本書を楽しく読みながらもどうも読みにくいなと感じていた。これには2つの理由があると思う。1つには、これは人にもよると思うが、形式論理に引きづられるとやはり論旨が追いにくくなる。論理という同じ言葉を使っているが、両者は違うものである。もう1つには、日本の作文が論証を目指していないせいで、これを論理的と呼ぶことに抵抗を感じる点である。フランスの作文がアメリカと同様論証を目指す型なのに対し、日本の典型的な作文は読書感想文である。だが、型に適切に則った読書感想文も紛れもなく説得的であるだろうから、これもまた形式論理のバイアスを振り払って理解すべきなのだろう。
最後に、本書の序章に位置する論理学の説明に関して注意書きをしておきたい。本書における論理学の説明は根本的に間違っているとは言えないものの、かなりポイントを外したものとなっている。また、ベースとなっているのが伝統的論理学で、19世紀後半に始まった現代論理学には全く当てはまらない記述もある。ただし、私は本書の主題にとって序章は不要だと考えているので、細かい点をいちいちあげつらうことはせず、簡単な注意書きを付するに留めておきたい。