今述べたことがブッダの教えの中で、もっとも重要で必須の点である。
ドゥッカの原因はドゥッカの中にある
これが凄まじい話なので。。すこし書きます。。
「どうして苦しいのかなあ」と、子供のころ、深刻に悩んでいた。そのときは、すこしの計らいで、まあ砂場ができたぐらいなのだが。。。
根本の対策ではないのは自明。
自分はそのとき、もはや家を出ようと思っていた。湯島聖堂まで行けば「気分がよい」ことは知っていたのはどうも木と水なのかもしれないが。。金ももっていない。なんとかなるだろうと、最後に、お別れに気に入っていた赤い花に挨拶していた。
涙が出た。
それは、間一髪で止められたのだが。。。お釈迦様の話を教えていただいた親族の中の優しい方一人に。あとはちがう。
そうして結局、お寺にでかけることになり、
これをいただいたが、すぐ手元から消えた。それについては気にしないことにした。
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「どうして苦しいのかなあ」という詠嘆、失望、疑問に答えるそれが、この項の、「第二聖諦 ドゥッカの生起」です。
だからそれを映します。
生存および生存の継続
(1) 普通の物質的食べ物
(2)(心を含めた)感覚器官と外的世界との接触
(3) 意識
(4) 心的意図あるいは意思
ブッダは、「心的意図の栄養素を理解すれば渇望の三つのかたちが理解できる」と述べている。
(1) 普通の物質的食べ物
この1は、
このように整頓しました。
234はたまに記載しているのだが。。整頓されているわけでもない。
そして、この本は次の項がある。
ドゥッカの原因はドゥッカの中にある
カルマは意図的行為
生と死
「この存在しよう、生成しようという渇望がある限り、継続の輪(すなわち輪廻)は続く。それが止むのは、現実、真理、ニルヴァーナを見る叡智によって、その原動力である渇愛が断たれるときである。」
と、第二聖諦の話は結ばれている。
ここまで事前準備、数学的準備、肉体的な検討、生活上の吟味、をしたのなら。。アビダンマッタサンガハを読む、の次の項。。欲界の次。。そこまでみても許されるのではないか。。。と考えています。
そして、個人的な話だが、「どうして苦しいのかなあ」の答えになるのが、その本のP84.今述べたことがブッダの教えの中で、もっとも重要で必須の点である、という記載です。