「だよね」と「だよ」の絶妙な関係
ゆる言語学ラジオをはじめとする「ゆる〇〇学ラジオ」の根幹を成す「ゆるさ」の魅力
例えば中田敦彦のYouTube大学とはどう違うのか
複数の言語学者が監修についているのは一定の「支持」を得ていると考えていい?
その筋の専門家が見た時に足りない所があると感じても、そこで手助けしたいと思えるコンテンツになるためには
語られている内容以上の知識のある人、あるいは語り手よりその分野に造詣の深い人が見た時に「あーうんうん、そうだよね」と頷いて「なるほど、この人はこういうふうに理解しているんだな」と視点の違いを楽しんだり「そうか、そういうふうに噛み砕いて説明したら一般の人にもとっつきやすくなるのか」など感じたりしてもらえるか、あるいは「そんなレベルの低いことやってんのか、これはこうだよ」と去られてしまうのか、その境目はどこにあるのか
クリシェであっても内容の紹介にとどまらず個人的な体験や独自の視点を織り込む(どこまで織り込めるか?)などして、その人ならではのラジオにする
ぶっちゃけ私もゆる言語学ラジオで取り上げられているテーマの中には既知のものもあるが、それはそれで楽しく視聴しているが、同じ「既知の内容」が語られている「ゆる〇〇学ラジオ」フランチャイズの中には飛ばしているものもあるし、知っているけど「それはそれとして」楽しんでいるものもある。
既知であり、その分野を知っている人から見た時に「表面的な説明」や「強引なまとめ」、「無理のあるたとえ」はどこから芸になりうるのか。何もかもパーソナリティやキャラへの好意や話芸で片付けてしまうのはもったいない。分析して別館での発信に活かすことができないか
たとえば、本職の絵描きから見た子供の絵のような、思ってもみなかった新鮮な着眼点や、物を知らないからこそ出てくる独特な「そこを取り上げるのか!」「なるほど、素人はそこが気になるのか」といった気づき
その界隈の人間にはクリシェであっても、そこを楽しむ作り方はできるはず。ゆる言語学ラジオではどうやってる?
「コモンセンスがバグる」「娑婆の空気が分からない」といった一般層との乖離をことさらに強調する
おもしろ説明おじさんとして時に滑り芸に
説明レベルを対素人、対趣味人、対専門家のように段階に分けて見せる
別館でできそうなことは?
クリシェと言う奴がクリシェだー!
1分で説明・10分で説明・100分で説明など
こんな〇〇は××だ!
水戸黄門を楽しむようにクリシェを様式美に転化
ポリスが出やすい、ポリスになりやすい界隈とそうでない界隈もあるかもしれないけど、それを言ったらおしまいよ