たちどまって考える
本屋に平積みされていて、聞いたことある名前だと思ってたら『テルマエ・ロマエ』の作者だった。 世界や歴史にあまり興味ななかったのだけど、こういった見方ができるようになるなら、ちゃんと学びたいと思った。
ありがちな、海外を称賛して不要に日本を落とす文章ではなかった。 そして、歴史的な観点から、西洋式の民主主義が果たして日本に合っているのか?という疑問。 「疑う」ということがポイントになっている。
イタリアを含む欧州の人々にとっては、物事に対して「疑念」をもつことがデフォルトです。何事もまず疑う。それは彼らの文化的な思考力であり、生存のための知恵でもあるのです。
ヨーロッパにおけるリーダーには弁証力が求められます。イタリアに住むなかで私が実感するのは、小さな頃からの学校教育に、その力を育むシステムが組み込まれているということです。
民主主義とは、参加者の弁論力によって成り立つものだということを、私は今回のコロナ禍における世界の指導者の対応を見ていて、しみじみ痛感させられました。
疑いという想像力には、それなりのエネルギーを要します。怠惰な人にとっては「信用」のほうがはるかに気楽でしょう。
ある意味で自分以外の何かに責任を丸投げできる「信頼」に比べ、「疑い」には大いなる想像力と知性、そして自分の考えをメンテナンスする責任が問われます。そして民主主義国家というのはそもそも、国民の猜疑心によって司られるべきだと思うのです。
欧州の歴史と文化がとても興味深い。
それを元に、文化芸術の重要性を説いている。
文化というのは人間のゆとりの象徴です。戦争などの暴力がなく、食べる物に満たされて、経済的に豊かであればあるほど、その国の文化は繁栄します。
しかし文化芸術をないがしろにしていては、文明は熟成しませんし、人はどんどん脆弱になります。
日本では、文化芸術はそれほど重要ではないもの、産業ほどの経済的生産性をもたらさない余剰なものとして扱われる傾向があります。しかし軽んじて 足蹴 にしていると、その社会は必ず痛いしっぺ返しに遭うでしょう。人類が生き延びるための手段として、栄養不足となった精神領域の充塡はとても大切だ、ということをルネサンスは証明しています。
終戦後しばらくの間、日本では文化的に非常にハイスペックな作家や映画監督たちが活躍しました。そして鑑賞する側も、特にインテリというわけでなくても、人間をとことん見つめた遠藤周作の小説などを読むのを普通のこととしていた。三島由紀夫が婦人向けの雑誌に連載、執筆しているような時代でもありました。
今回、芸術家やフリーランスに対しての経済的サポートが他国より出遅れた日本ですが、そこでもまた先進国としての違和感を覚えざるをえませんでした。
その他、内容が盛りだくさんで、ここですべては網羅できない。
ちなみに、キューバが知られざる医療大国だということと、識字率がほぼ100%と言われるほどの教育環境が整っているということ、どちらも知らなかった。 パンデミックを前にあらゆるものが停滞し、動きを止めた世界。17歳でイタリアに渡り、キューバ、ブラジル、アメリカと、世界を渡り歩いてきた漫画家・ヤマザキマリさんにとって、これほど長い期間、家に閉じこもって自分や社会と向き合った経験はありませんでした。でもそこで深く深く考えた結果、「今たちどまることが、実は私たちには必要だったのかもしれない」という想いにたどり着いています。この先世界は、日本はどう変わる? 黒死病からルネサンスが開花したように、また新しい何かが生まれるのか? 混とんとする毎日のなか、それでも力強く生きていくために必要なものとは? 自分の頭で考え、自分の足でボーダーを超えて。さあ、あなただけの人生を進め!
https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/51nsxfkkUoL._SX313_BO1,204,203,200_.jpg