モンゴル軍のイギリス人使節
||||||
https://gyazo.com/425f26c2a39ebe1e5c4b9242ef954c2a
20201120
「ペルシァの年代記「Tarik Jihankushai」によると、献上する娘は軍隊が摘発した。まず」モンゴル軍のイギリス人使節
Tarik Jihankushaiは、ダマスカスの引用文献の「291Al-Juwaini: Tarikh JihanKushai (or History of the World Conqueror); 」てのにあったぞ
「チンギスは500人を越す妻妾を抱えていたとこの年代記には記載されている。モンゴルの高官のなかで、哀れな捕虜を妾にしなかったのは、耶律楚材ただ一人だった。」モンゴル軍のイギリス人使節
「この陋習をにわかに廃止するのは無理だと判断して、上層階級からも下層階級からも均等に娘を差し出させて公平に「選別する」対策を講じた」
「無法と虐殺がまかり通っていた混沌とした世界制覇のなかにあって法律を作り、一歩一歩着実に秩序を回復させようと奮闘していた。」
参考
病院
なんとなく
モンゴルを介して東西は話はあったはずだが。。。そこまではわからない。
A
P72
祖国イングランドを永久追放されたこれらの司祭たちと完全に面目を失墜した一握りの諸侯にとって、はらうかにエルサレムへ旅立つ以外とるべき道はなかった
モンゴル軍のイギリス人使節
ルート(たぶん)
それら惨状を要約すれば、上記タタールはボヘミア王国の国境に至るロシア及びポーランド全土、並びにハンガリーの中央部を壊滅せしめ、突如書としに乱入するや、住民の面前にて市の長を縛り首に処し、
モンゴル軍のイギリス人使節 P18
1241
度重なる十字軍の派遣にあきあきしたキリスト教国は、イスラム教徒を制圧して聖地を奪還するという悲願に急速に関心を失いかけていた。相変わらず闘魂に燃えているアラブ人を相手に、果敢に戦いをい飲むというよりも防戦に汲々としていたのである。
モンゴル イギリス人使節 P14
依然としてイスラム教をキリスト教の唯一の敵とみなしていたローマ教皇庁
P19
バトゥ
永遠なる天の御力と大ハーンの威福により、わが軍はロシア国民を奴隷となし、さらに十一カ国を軛にかけて制圧す。
P19
ヨーロッパ大陸では全土に恐怖とパニックと混乱がひろがり、罪もない無数の人々を血も涙もなく殺戮し尽くす比類のない残忍さが町から町へ、修道院から修道院へ、王から王へと伝わっていった。
P19
強敵無比なるタタール軍
オーストリアに挑み
ハンガリーをも滅ぼす
汝アタールよ
主の急敵にして主に刃向う者
偉大なるロシアの地を踏みにじり
オーストリアをも犠牲にせんと欲す
ナルボンヌのイヴォー
近隣地方で突如タタールに襲撃されて、身分、財産、性別、年齢の別なくさまざまなかたちで殺害された哀れな人々の苦悶のうめきが、天にまします主の許に立ち上っていくのが聞こえました。
タタールの撤退 オゴディの崩御
キリスト教徒の八名のタタール軍将官の捕虜
一人がイギリス人だった。
当時イングランドは敬虔なキリスト教徒であり
ヨーロッパ人がかつて誰一人足を踏み入れたことのないモンゴルの権力の中枢地、カラコルムを指して、辛く厳しい長途の旅についた
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ジョン王の圧政
1220年代のイングランド
初期の王権絶対主義の思想はイングランド以外のヨーロッパ諸国ではすでに何世紀も前に提唱されていた。
マスター・アレキサンダー・メイソンという改革派の聖職者の「邪なる説教」がいまに伝わっている。
ローマ教皇から聖務執行停止の処分が発動されていた間、ジョン王の特別顧問を努めていたマスター・メイソンーロジャーの称するところによれば「えせ神学者」は、「王たる者は神の子で、人民や臣下を厳しく支配し、力を挫いて「陶の器」のごとくになし、王権を行使して人民には足枷を、貴族には鋼の手枷をはめるべく神から遣わされた。。」と王に進言し「こうした誤った見解で王に取り入り、ジョン王が暴虐を振るって信仰篤い人々から奪った対土を手中に収めた。
教会と国政及び絶対君主とを分離させるという理論
その実行
別問題:ダブルスタンダード(この書き手追加)
専制政治と酷税、腐敗した行政機関(これは家族や婚姻、相続が絡んでる)財産権を譲渡した外国人を役人に登用する制度、王権の不当な行使(大日本帝國の天皇)、ローマ教皇による王権剥奪、農民に対する搾取
そこの諸侯たちを次々に反逆罪で告発し、王に、みずから常々公言して憚らなかったように、妻を犯されたり、娘の処女を奪われた諸侯たちを嫉妬に狂った馬鹿者呼ばわりした。
ジョン王は財源の確保には無神経そのもので、貴族、平民、農民の別なくあらゆる階層から金を搾り取った
王の命令でイングランド全土のユダヤ人が男女を問わず捕らえられ、獄に繋がれて拷問を受けた。拷問に耐えかねて、全財産を放棄するばかりか上納金を支払うと約束した者は釈放された。
ロバート・フィッツウォルター、が元軍のそれの有力候補
ロバート
アラブと手を結ぼうとしたジョン王の画策をご破産にした
13 政治顧問 耶律楚材
耶律楚材は一段と巧妙な手立てを講じて古典学者、占星術師、数学者をはじめ多くの学識者を募り、モンゴルの行政組織に迎え入れて最高の地位を与えた。かのイギリス人の例のように一部はさらに範囲を広げて別の地域からも人材を求めた。
彼らにとって耶律楚材の庇護のもとに、力を合わせてともに働くことができたのは実に幸運であった。耶律楚材はヨーロッパのルネサンス時代に輩出したヒューマニストの先駆者とも言うべき人物で、文明の発達は今日信じられている以上にこれらヒューマニストに負うところが大きいのである。
これ。。楚材に逆らうタコさんて、五逆罪の誹謗中傷のレベルになるから気をつけてくださいね
うん。。その罪で死病になったのならおれは納得する
。。。。ならいいですけど
当時パリはヨーロッパ第一の悪名高き都市だった。パリの住民が人目も憚らずに悪徳を追い求める実情を目の当たりにして、かのイギリス人も度肝を抜かれたに誓いない。
何よりも恐るべきはパリの聖職者たちが一般民衆にも増して放埒をきわめていることだった。
しかし聖地から組織的に略奪してきたと見なしたヴィトリは「ああ、他者から略奪を働く者」と激しい怒りを叩きつけた。
P103
アクレ
https://gyazo.com/ba1a19997b526f12abd531f5a5b7e86b
ダミエッタ
1218 8 24
十字軍士はダミエッタ市街の要塞へなだれこみ激戦の末にここを占領した。
スルタン・アル・カーミル
十字軍がエジプトから撤退するなら、聖十字架はもとより、エルサレム、ベツレヘム、ナザレ及びガリラヤ全土の支配権を返還する、というものだった。
P118
1223年 かのイギリス人はゴビの砂漠の只中にあるモンゴルの権力の中枢へと向かっていた。
そこまで足を踏み入れたヨーロッパ人はかついて一人もいなかった。
P144
|
征服した中国の膨大な都市人口を持て余したモンゴル軍の将軍たちが、住民を皆殺しにして町ごとそっくり葬り去り、馬を養う牧草地に変える決定を下した際にも、彼は勤勉な中国人をむざむざ殺して牧草地の肥料にするのは惜しい、人民を財源として利用したほうがハーンの得になると説き伏せた。
P181
西夏の王は、チンギスの要請を無視して属国の義務を履行せず、ホラズム王国への報復戦に参加するのを拒否したために、チンギスは火のような復讐心に燃えていた。
P188
しかし不吉な前兆が現れていた。惑星が五つ、不気味に繋がって空に出現し、宮廷付きの占星術師はチンギスの身に災いが降りかかる前兆だと見立てた。
P188
ついでオゴディを後継者に任命して、西夏が降伏した際には、王と首都の全住民をいささかの情もかけることなく徹底的に屠り去るように命じた。
P189
キリスト教世界の「罪にまみれた都」パリに滞在したのだった。
P91
当時パリはヨーロッパ第一の悪名高き都市だったが、それもいわば自業自得の結果であった。今日、ヨーロッパの各都市で犯罪や悪徳、腐敗が横行しているのを驚嘆する人々にとって、七世紀半経っても事実上何一つ改善されていないとは、まさしく衝撃的と言うほかないであろう。
P91
ロンドンでも犯罪は少なくなかったが、それでも当時の首都の平均的な水準にとどまっていた。したがってパリの住mんが人目も憚らずに悪徳を追い求める実情を目の当たりにして、かのイギリス人も度肝を抜かれたに違いない。
P91
瘡蓋だらけの山羊か病める羊さながらに、パリは悪しき手本を示して、あらゆる地域から集まってきた夥しい人々を腐敗に追い込む。それと同時にこの都の住民もそそのかして、もろともに奈落の底に突き落とすのである。
ここでは不義密通を犯しただけでは罪には数えられない。売春婦が道路や広場に群がり、通りがかった聖職者をほとんど力づくで放蕩の館に引き摺り込む。
たまたま何らかの理由で同行するのを拒んで立ち去ろうとすれば、大声で、男色者呼ばわりをされる。
ひとつの屋根で、上の階は学校、下の階は淫売宿という事例もある。
学生たちはたがいに議論を吹きかけ反駁し合うが、宗派の違いやそれに関連したさまざまな問題を討議するのではなく、生まれ育った国が異なることから生じる意見の相違や憎しみ、激しい敵意をいたずらに煽り立てて、恥も外聞もなくたがいにこきおろし侮辱し合う
イギリス人は。。フランス人は。。ドイツ人は。。ノルマン人は。。ボアトウの住民は。。ブルゴーニュの。。ブルトン人は。。ロンバルド人は。。ローマ人は。。シシリア人は。。ブラバンド地方の。。。フランドル出身者は。。
こうした侮辱が投げつけられたあと、暴力沙汰になることが多く。。。。
で、パリからアクレ(アッコ)を目指し、上陸したそうだ
アクレ(アッコ) Acre
バイエルン人の「暴力沙汰があらゆる人々にお呼び、修道尼や修道士までも宿舎を追われて」やがて土着のキリスト教徒が無差別に殺害されるようになると
レオポルド公も武器をとって立ち上がり、「ローマ・カトリック教を信奉する諸侯の名誉にかけて」バイエルン人を武装解除させた
かくして彼は、三十歳の若さで、無一文のまま生まれ育ったキリスト教世界ともそれ以前の生活とも最終的に絆を断たれたのだった。昔の諺のとおり、ついに賽は投げられたのである。
P131
カルデア(南部イラク)
ヴェネツィアとジェノヴァはいち早くモンゴルに援助を申し出た
P128
アゾフは、ヴェネツィアとモンゴルが友好関係を結んだ初期のころ、ヴェネツィア人が極東の職人やタタールの代理人を相手に活発に取引をおこなう前線基地であった。
P131
すでに何世紀もの歴史があり、ロシアの都市キエフの支配下におかれていた。
P136
ヴェネツィアのガレー船をアゾフ海で利用するなら、ヴォルガ河とアゾフ海を征服すれば東西をひとつに結んで交易ルートを開くことができる
https://gyazo.com/cd3a31e99c240858030fac70ae3afb4b
キエフの商人とコンスタンチノーブルのギリシャ人交易商はヴェネツィアにとって目の敵で、競合は我慢できなかった。
キエフはこの際ぜひとも制圧して排除する必要があった。
P116
「実際にそのあたりはイタリアのジェノバ商人の植民地有りましたからね~東ローマ帝国のミカエル8世とニンファエウム条約とか結んでたりましたし」
ウェンドヴァーが残した貴族のリストに目を通すと、彼は先頭に立ってジョン王と闘った指導的立場の諸侯の人痴であったに違いないと思われた。
P308
つまり政治的下級聖職者こそ、グァロ枢機卿の手で血祭にあげられたマグナ・かるた抗争の正真正銘の犠牲者だった。
P109
専属司祭のロバートとロンドンのロバートは同一人物で、つまりかのイギリス人(モンゴル軍のイギリス人使節)であったと筆者は百パーセント革新するに至った。
P116
まだ三十歳にもならぬ青年時代に祖国を追放された直後、アクレで賭け事にふけって無一物になり、冬のさなかだというのに粗末な麻のシャツ一枚と牛革の靴、馬の毛の万とが財産だった由。
P118
オーストリア候は捕虜の一人をイギリス人であると見分けました。その男はさる隠れもなき罪を犯した廉で、イングランド王国から永久追放された人物でありました。
イヴォー神父
P292
なぜバトゥ・ハーンが首席外交官の救出に踏み出さなかったのか、手がかりとなる資料は現存していない。
P302
かのイギリス人の命運はついに尽きた。処刑されたのは1242年の7月末ごろで、遺骸は、墓標もない募穴に埋められた。
P302
ヴィーナー・ノイシュタット
ダルマチア候の陣営
ハンガリアン・ゲート
セント・ウーリッヒ教会
https://gyazo.com/85e694e1c8d61df9505f3ee7f227776b
https://gyazo.com/56961b83d2167efbd012215e04bddba8
戦場でモンゴル人がこぞって略奪を働き、戦利品を漁っては強奪に狂奔しているときも、彼は書籍や地図、楽器、絵画を略奪から守り、薬品や薬草を集めることに専念した。
やがて徐々に、しかもいたって巧みに、果てしなくくりひろげる大量虐殺のおぞましさと、制圧した国々を屠り去るよりは支配下において統治する重要性をチンギスやその息子たちの頭に叩き込んだ。
P181
十種神宝
Robertどこにいる。とくさのかむたからでもやるか?
ロバートじゃないと調整不可能だろう
Mestoを弾いてやってくれ
-----------------------------------------------------------------------------------
耶律楚材の力量を持ち、東西の架け橋となるべく神に仕えた元の筆頭外交官ロバート、ウインナーノイシュタットに眠る。
安らかなれ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ジョンは、あろうことかイスラム教に帰依して、イングランドをイスラム教国に変えようと決心したのだ。
P44
「アフリカ、モロッコ並びにスペインを統治する偉大な王に謹んで献上す。ー」
P47
そなたたちの王は取るにも足りぬ君主にして、分別に欠け耄碌しておる。余のごときイスラム敎の統治者が手を結ぶに足る人物ではない。
P49
汝らの王こそは愚かなる背教者。悪臭芬々たる破廉恥な行為に余の鼻も曲るわ。
P50
そうして王は「風采のあがらぬ」使節ひとりを呼び戻して話したらしい
マスター・ロバート
王というよりは圧政をこととする暴君、統治者というよりは破壊者で、己の国民は虐げながら、「異邦人には信用すべき友のごとく振る舞う」
P51
え
じゃ。。。チンギスハーンの目的地はイギリスだった。。。。