『きみの色』
https://youtu.be/ewBr5DCJZv8
監督
音楽
memo
豊かさの象徴みたいでやばい!ありえん丁寧だ
劇判
芝居作画
アブストラクトアニメーション
https://youtu.be/-w5fmXhXGOk
長さを意識したまま長く感じなかった鑑賞体験珍しいかも
長く感じない程に面白い映画は時間を忘れてしまうことが多い気がする
今回はマクロな時間の制御そのものに意識が向いた
山田尚子「世界を作るのではなくカメラを置く」
ライブ明けのバレエカット
トツ子は色を見るための装置古谷樹.icon
「見えた」は太陽と自分の色をかけている?
トツ子によって照らされた色を観客は見ている
終盤で映る空気遠近の効いた紙テープのカラフルさと対比されている
一番カタルシスのあるシーンなのに色がくすんでいる
光学的な影響があるリアルさが故に、トツ子の感覚ほどビビッドではない
覗き込むカットやなめ物の多さ
キャラとの距離
感情移入の拒否
山田尚子「思春期の悩みを振り返るとちっぽけに思えるが、それを大人の視点から矮小化して語るのは彼女らの存在を無下にしている」
素敵ーーーーーーーーーー!
鑑賞者はキャラクターに触れられず、キャラクターにとっての悩みの大きさを示している?
細部の描写から全体が構成されているように見せるのが上手くて、ディレクションが透明になっていた
作劇上の恣意的な敵が登場しないのも素敵だった
制作者にキャラクターが虐げられてるが分かると冷めるし辛い
映し方によってはトツ子がヌルい環境にいるようにも見せれるけど、ちゃんと困難に必然性がある映し方を徹底していた
感情移入の拒否に繋がる
ミスチルとagraph
やばい!!!!!
エンタメに軸足がある川村元気だからこそ、シンプルなエンタメ性とグッドさを両立できている気がした オールドレンズのカット
矢継ぎ早にカットが変わる
劇伴はない
CONTINUEの対談で牛尾憲輔
シーケンスの滑らかさ、カットを横断するフックと音楽性
距離の近いキャラクターをひとりだけ映すとき、対面側に人物を寄せて逆側に余白を作る構図
抽象的な直線が水平線上の山になるカット良い
パンフレット
最初の指針は「calm」、絵画のような雰囲気
本編の背景は薄塗りの油彩、トツ子の視点は水彩。
プリズムカラー、祝福
学校の聖堂
黒島天主堂がモデル
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担当: 島田碧
教会
旧五輪教会堂がモデル
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担当: 室岡郁奈
朝の教会のシーン
室内はグレー、外はピンク
室内は室岡、外は島田が美術ボードを担当
山田尚子「イチゴミルクみたいな一番きれいなピンクをこのシーンに取っておきたい」
「ぽってり」としたオーダー
「3人を取り囲む世界をきれいに描いていきたい」
自然光や室内灯以外の照明装置としての色
淡い中でも強調したい色はキャラよりも強くしている
光の方向は強調せず、全体的に光が回る感じの設計
CONTINUE Vol.84
牛尾憲輔「手すりとか動く歩道みたいな選曲はよくなくて、通路の足元にある照明みたいな選曲がいい」 ガイドを設けるうえでの心得
色彩から始まり、徐々に輪郭をもった場面に変化する表現も印象的である。例えば古本屋しろねこ堂で、トツ子がきみからバンドをしていいと言われたときに、「ズキューン」と胸を打ち抜かれたような反応をした次のショットである。白い背景に濃い青色が凹凸を伴って、ほぼ水平に塗られる。その後、その輪郭のぼやけた色の塊が、船から見える山として、ディゾルヴするように変化し、それがトツ子ときみが乗る船内からの具体的な眺めへと転じる。あるいは映画の終盤、ルイが船で旅立つシーン。はじめ、白い画面にカラフルな複数の色が浮かび上がり、その後に背景の空や見切れている船体がここでもディゾルヴするように浮かび上がり、具体的な場面になっていく。
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これらの場面では、描かれる対象が輪郭を持って意味を指示される前に、色とその質だけがあり、後に具体的な場面を指示するモノの表現として象られていく。何らの枠組みをも持たない色が最初に来て、その後、シーン内での意味や機能を持った「モノ」として同定(アイデンティファイ)されるのだ。このような、輪郭線を欠いた淡い色から画面が徐々に輪郭を持っていく表現は、枠組みをもって限界づけるのではなく、質そのものとして世界を感受することの、素朴だが本来的な世界との関わりというものを比喩的に思わせる。トツ子の世界の見え方と非共感覚者のそれは当然異なるわけだが、人は認識した対象を、属性や社会的な位置づけ、有用か無用か、といった意味的に輪郭づけられ制限づけられた枠組みから同定するその手前で、まず感受しているのではないだろうか。山田尚子が、日常を精緻に描写するときに、そのフィルムが情感を伴うのは、その表現が、そのような世界との関わりの源泉に触れようとしているからではないだろうか。輪郭を欠いた色の表現は、本作を特徴づけると同時に、山田の表現的な核心とも象徴的に関係していそうである。 トツ子は人を色で認識している。彼女が他者から受け取るのは色そのものであり、その人の輪郭ではない。トツ子が人に対してきれいだと感じるのはその造形ではなく、発される色である。きみは、アニメの表現的な慣習からして、美人として描かれているだろうが、映画の最初にトツ子が彼女に「心酔」しているのは、その身体的な造形のためではなく、その色のためである1。山田は、これまでも自身の作品において女性同士の親密な関係性や感情を描いてきた。しかしそれが「何」なのか、作品の中でも外でも、既存のセクシュアリティやジェンダーの言説のなかに組み込んで明言することは避けてきたようである。そのことについて、観客側が考える是非は各々あるだろうが、本稿における色と輪郭線の文脈から見るならば、次のことは言えるだろう。本作では、トツ子の世界と他者に対する感受の仕方を通じて、既存の枠組みという輪郭線に制限づけられえない、意味化される手前の世界や他者との関係が寿がれているだろう。輪郭づけられる前の状態を手放さないこと、あるいは手放せないことが「変えられない」ということこそが、トツ子の世界をつくっているのである2。
参考