目標という幻想
Pluralityとの接続、ちょうど理解した通りだったblu3mo.icon
code: memo
① 違いを超えた相互作用によってある指標に最適化すること
(e.g. 熟議によってパレート最適な解が見つかる)
② 違いを超えた相互作用によって、価値の指標自体がオープンエンドに変化すること
(e.g. 熟議によって互いの価値観が変わる)
があって、①は①でやれるといいんだが、②の方がSupermodualr性があってアップサイドは大きそう
Pluralityが言っているのは②の話で、
1) 多様な主体が相互作用する中で、価値の指標自体が絶えず変化・生成されるオープンエンドなプロセスがいいよね!
2) オープンエンドとはいっても、多様性自体は維持された方が 1) が持続してうれしいよね!
と言っているのだと理解
「野心的な目標ほど、目標を設定することの効果が薄くなる」という話かな
短期でAtoBをちゃんと設定して物事を動かしつつ、長期はオープンエンドにやるのが良さそう
Bがあると安心できるし、エネルギーのあるやつがそれを持て余さずに走ることができる
ただその安心は偉大な成果につながらないよ、というストイックな話をしている
このオープンエンド性を、なんらかの民主主義のバックアップとなる思想と接続して説明できないのかな
アーレントとかかblu3mo.icon
ゴールとの距離が十分に正しく計測できるなら良いが、遠いゴールや不確実で難しい野心的な目標でそれは大抵不可能
やろうとすると罠にハマるだけ
heuristicsの関数の設計がむずいという話だねblu3mo.icon
「十分に簡単/単純なことを成し遂げたいならゴールなら設定したらいいと思うけど、偉大なこと/複雑なことを成し遂げたいなら別の方法考えたら?」という主張だね