ニーチェ入門(ちくま新書)
問題の意味ではなく起源を問う
認識問題の起源
わたしがニーチェを読み直して強く持った印象は、ポスト・モダニズムはニーチェ思想の可能性をその一番深いところまでは汲んでいない、ということである。これは以後繰り返し出てくることになるが、ニーチェ思想の柱は三つある。ひとつは「ルサンチマン批判」。ひとつは「これまでの一切の価値の顚倒」ということ。そして最後に、「ニヒリズムの克服」すなわち「価値の創造」ということである。ポスト・モダニズム思想は、はじめのふたつについてはニーチェの可能性をうまく汲み上げている。しかし最後の点についてはその可能性をむしろ殺している、というのがわたしの考えである。
結局『ツァラトゥストラ』は一八八五年にほぼその全体が出来上がる。翌一八八六年の『善悪の彼岸』、さらに翌一八八七年の『道徳の系譜』。そして八二年ころから書きつがれる『八〇年代の遺稿から』(『権力への意志』としてまとめられる)。この時期が、いわばニーチェ思想の最も豊かな実りの秋である。「キリスト教批判」、「ニヒリズム」、「力の思想」、「超人」、「永遠回帰」などの諸思想が、緊密に結び合いながら深いレトリックによって明瞭な輪郭をとる。
そこでショーペンハウアーにもどると、「表象」と「意志」という区分は、いま見たような「世界の現われ(=表象)」とその根本原因としての「意志」という区分だと考えていい。しかし、世界の現われの根本原因がなぜ「意志」なのかは、イマイチ分かりにくいだろう。じつはこの「意志」は、ほとんど「神」と言うのに近い。デカルトやスピノザやバークレーの時代なら、確実に「神」と言ったのだが、さすがにショーペンハウアーの時代は一九世紀で、はっきり「神」と言うのは憚られる。そこで、いわば世界には「何だか知らないけれど、根本として意志するものがある」と言っているのである。 こういう考えを「汎神論」と呼ぶことができる。これは哲学以外の領域でも根強く存在しているしなかなか滅びない考え方だが、現代哲学の土俵ではだいたい死滅した考え方だ。 「意思」、いわゆる本能みたいな概念と思って良さそうだなblu3mo.icon
「本能ってものがあって、それらがconflictしあってる」という前提の上で、ニーチェが「力求める本能がある」と言っているのが「力への意思」
人間は要するに、自分のうちのさまざまな欲望によって苦しむ。これは誰でも知っていることだ。苦しみがあまりに大きいと、わたしたちはしばしばこの欲望こそが矛盾(苦しみ)の根源なのだから、いっそ欲望そのものがなければ矛盾もなくなる、と考える。先にも言ったように、仏教の考え方もこれに近い。「煩悩」こそが一切の苦しみや矛盾の源泉であり、したがって「色即是空」と観じて「煩悩」を消し去れば人間は救われるという考え方である。しかし、ニーチェは『悲劇の誕生』においてこの考え方にはっきりと反対しているのである。 「欲望する存在としての人間は矛盾に満ちている、しかしそれにもかかわらず、この欲望の本性は否定されるべきでない」。このニーチェ独自の直観は、彼の青年期の芸術体験によるところが大きいような気がする。
「真理」観批判
キリスト教批判
現在あるヨーロッパの「人間の理想」の原型を作ったのは、いうまでもなくキリスト教である。ところでまず、キリスト教の人間観の本質は「ニヒリズム」(つまり虚無への意志)にほかならない。その理由は、キリスト教の思想がその根本に「ルサンチマン」(弱者の反感)の本性を隠し持つことによる。