ドゥルーズの哲学原理
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読書会で読む
ドゥルースに関するいろいろな思想あるけど、通底する原理を理解するのが目的の本 はじめに
「ドゥルースの思想」、すごい曖昧な概念
何らかの力が受容されることで生成変化が起きる
ガタリとの共著によって政治的になったりしていた
共著をドゥルーズの思想と捉えるのも違くね、と
ドゥルーズの本、他の思想の解説+解釈書みたいなの多かったと
その中にドゥルーズの思想が紛れ込んでいるのをドゥルーズの思想と呼ぶのも違くね、と
というわけで、「ドゥルースの思想」はどこに見出されるのかを考えるべき、と
第一章
1.
ドゥルーズが人の思想の解説と称して自分の思想を紛れ込ませて書いていることについて
いやなんでだよblu3mo.icon
それを受け入れてまで読むべき大事なことをドゥルーズが言ってるならまあ受け入れるけど、という気持ちblu3mo.icon
え、自由間接話法、ただの発言者が不明瞭な文章じゃない..?blu3mo.icon これをベースに著者主張:Deleuzeは自分の考えた原理を具体的事象に当てはめているのではなく、具体的事象自体について思考している
なぜなら、自由間接話法のやり方は一般化できなくて、自然にその時々に出るしかない
つまり、具体的事象を引用して報告する中で自然にこういう話法が出ているということは、具体的事象自体を思考の対象としている
???blu3mo.icon*3
論理構造は掴めた気がするけど何言ってるのか分からん
まあでも、このイタコ的姿勢はドゥルーズが必死に編み出したビジョンであるので、それをある意味オーバーに表明する手段として自由間接話法? まあでもあくまでもイタコはstep 1で、その後
2.
そもそも何でこういう話法である必要があるかについて
哲学研究でやることについてのドゥルーズの意見:
哲学者が明晰には意識していないけど思考の背後に存在する概念や問いを見出す
この部分、國分「ドゥルーズ「ベルクソン「ヒューム「〜〜」」」」という発話者の入れ子構造が、それこそ自由間接話法で描かれているな
思考を言語化する上での暗黙の前提などを暴く上でこれを考える
これに迫る上で、論じるものと論じられるものの区別は曖昧になる
論じる人は、あくまでも論じられる対象の思考にある(と論じる人が考えている)ものを記述するので
なるほど、論じる人が見出した思考のイメージが正しい(?)なら、自由間接話法でも問題ないと確かに言える
自由間接話法以外だとダメな理由にはならん気がするけどblu3mo.icon*2
ドゥルーズが思考する上で論じられる対象と同化するのは勝手にやってくれ。ただそれを他者に説明するときは直接話法か間接話法を使ってくれ、という気持ちblu3mo.icon
3.
内在平面
概念は、概念同士の関係によってのみ規定されており、その関係の外、つまりその平面を超越する場所にある原因によっては規定されない
「概念が規定される」という意味がよく掴めないblu3mo.icon
概念は、他の概念との相対的位置によってのみ意味を持つ、みたいな感じかな?blu3mo.icon
概念は、相対的であるとともに絶対的である
内在平面=要素の合成によって生まれる概念らの集まり=語られていない前提
異なる前提を打ち立てると、異なる内在平面が生まれる?
既にある平面&そこから生まれる問いを批判する事で、新しい平面と問いを打ち立てる
これが哲学研究、という立場
問いを批判する事のみが問いを立てる方法
第二章
ヒュームの経験論をカントは批判して超越論に
それは良いけど、超越論だと主体の発生の問題が扱われていない
主体や自我が発生している事が前提とされている
アプリオリとか純粋理性みたいな、経験論的不可知論を避けるために持ち出した概念がどう生成されるか議論してねぇと言っている?
そこで、ドゥルーズは超越論的経験論
超越論の超越的なものを見出そうというカントの方針のはいいんだけど、カントはそれを出来ていない
ちゃんとやるなら、自我とか理性とかを超越論的(=生成プロセスを説明しない)ものにしないで、しっかりそれらの生成プロセスも検討する
無人島
他者がないと対象は対象至り得ない
それは自我も含む
見えない対象の対象性(存在)を信じるのをヒュームが「信念」としていたが、ドゥルーズはその生成プロセスを他者で説明
その上で、それでも生成プロセスを説明できない超越論的な物として「出来事」を提示
この使い道として、精神分析
フロイトとかも自我や超自我を前提としないで、生成プロセスを描いていた