「近代的時間」観をめぐって
その前にまず,19 世紀以降の諸学における時間論の全体的な流れとして,「近代的時間」の相対化の 傾向性の存在を指摘しておく必要がある。時間の社会学の登場までに,近代科学が「近代的時間」を唯 一の時間として素朴に前提してきたこと,しかしながらそれが唯一の時間観ではないこと,こうしたこ とが次第に明らかになってきていたのである。たとえばH. ベルクソン,E. フッサールやM. ハイデガー らは,周知の通り「持続」,「内的時間意識」や「本来的な時間性」といった時間性に大きな注意を払っ てきた。その際これらの時間性は,本稿が「近代的時間」と呼ぶ時間観(彼らはそれを「空間化された 時間」「客観的時間」「通俗的時間概念ないし「今時間」等々と呼ぶ」とは異なった,それには留ま らない別の時間性として,「近代的時間」の相対化の根拠として位置づけられてきたのである 3)(Berg- son 1889=1975; Heidegger19271993=2013; Husserl 1928=1967)。 00000000 時間の社会学もまた,こうした「近代的時間」以外の別の時間性の探求,という同時代の諸学の傾向 性と軌を一にする仕方で,時間への探求を始めたといってよい。P. ソローキンとR. K. マートンによる 指摘にみられるように,時間の社会学の出発点には,「ニュートン時間〔=「近代的時間」〕の偶有的な 性格」(Sorokin and Merton 1937: 616, 括弧内は本稿筆者)という認識が,すなわち「時間が客観的で あることに関して,おそらくもっとも確たる主張をなして」いた「単一で,際限なく分割可能で,連続 的であるというニュートンによる時間概念の定式化」だけが「唯一のありうる時間概念ではないこと」 という認識が,存していたのである4)(Sorokin and Merton 1937: 616)。
さまざまな論者から指摘されているように(cf., Bergmann 1983; P