direct interfaceに対する納得できなさ
Direct Manipulation時代から次の時代へ
こうなってくると、CHIの大きな物語が終了して次の時代が開いたといっていいだろう。CHIの大きな物語とは、すなわちダイレクトマニピュレーション(直接操作)時代である。Ivan SutherlandやDouglas Engelbartらが切り開いた「コンピュータを実時間に操作し、実時間のフィードバックを得ながら対話的にコンピュータを使っていく」というパラダイムが、すくなくとも研究対象としては一区切ついたと考えるべきだろう(研究としてはスマートフォンの登場あたりですでに区切りがついていたのかもしれないが)。
次は何かというと、AIと何らかの「会話」をしながら目的を達成するという方向がある。これは発想自体は特に新しいものではなく、自然言語インタフェース、エージェント指向インタフェースと呼ばれ今までも研究は続けられていたし、映画 2001年宇宙の旅のHALなど、むしろ普通に思い浮かべる未来のインタフェースは直接操作よりはエージェント型だろう。CHIコミュニティでも以前から当然そういう発表はあったのだが、マジョリティとしてのダイレクトマニピュレーションの地位は揺らいでいなかった。が、ここにきてついにその「大きな物語」が一区切りついた感がある。ダイレクトマニピュレーション不要とか無くなるということではないが、もはや主役ではないということだ。(「会話」とカッコ付きで書いたのは、それがかならずしも狭義の言語会話に限定されず、生体情報、非言語情報、コンテキスト、履歴、さらにはBCIなどの可能性も包含しているという意味である)。
これにあんまりしっくり来ていない。direct manipulationの感覚が失われて、AIがagencyを持っていくことに寂しさを感じる
前後の文脈も組み合わせるなら「しっくりくること」より「お金出しても欲しいこと」に価値を置いている、と読むこともできる気はするが
人間がフィードバックループに入る価値が減っていくと、「direct感」「agency感」に対して経済的価値がつくことはあんまりなさそう
人間がテレオペするシステムにおいてはdirect感に価値がありそうだけど、人間より機械がタスクをより良くこなせるようになると、「それでも人がagencyを感じられること」に価値はあんまりない
「何かが為されること」の価値の方が、「何かがなされた感を得られること」の価値より大体高い
コミュニケーションは例外かな〜
「agency感」より、情報伝達効率とかを考えた方がわかりやすい顧客価値は生まれそう
インターフェースの何に価値を見出すか、というところ
OOUIとかは、人間の探索効率みたいな文脈でわかりやすい価値を提供していそう