(伊予柑ぶるーも議論)庭の話
1. 庭の定義とプラットフォーム批判
議論の冒頭では、まず「庭」という概念の定義が詳細に検討されました。ここでは、庭が持つべき3つの条件が提示され、それぞれの条件について具体的な例を挙げながら説明がなされました。
事物とのコミュニケーション: 庭の第一条件は、事物とのコミュニケーションが可能であることです。これは、人間同士の承認欲求に基づくコミュニケーションではなく、物との純粋な関わり合いを意味します。庭では、植物や本など、様々な事物との出会いが提供され、我々はそれらと自由に関わることができます。
生態系の開放性: 第二の条件は、生態系が開かれていることです。具体例として、ブックオフの100円コーナーが挙げられました。ブックオフでは、本は厳密にジャンル分けされず、アルゴリズムによってランダムに配置されています。この無秩序な配置は、設計者の意図を排除し、予期せぬ出会い、すなわちセレンディピティを生み出します。この点で、ブックオフは庭に近いとされました。また、図書館は生態系が開かれておらず、庭ではないと指摘されました。
関与はできるが支配はできない: 第三の条件は、庭に対して関与はできるものの、完全に支配することはできないということです。庭師は植物の手入れをすることはできますが、庭全体の成長や変化を完全にコントロールすることはできません。この点が、個人の意見が反映されすぎるプラットフォームと庭の大きな違いであるとされました。
これらの定義を踏まえ、現代のプラットフォームに対する批判が展開されました。特にSNSは、プライベートとパブリックの境界を曖昧にし、個人の「私」と社会における「みんな」を過度に結びつけてしまうと指摘されました。これにより、ユーザーは個人の意見をプラットフォーム全体に反映させすぎ、コントロールできているかのような錯覚に陥りやすいと議論されました。
2. 庭の拡張概念:コレクティブとインティマシー
庭の基本的な定義に続き、議論はその概念を拡張する二つの重要な概念、すなわち「コレクティブ」と「インティマシー」へと移りました。
コレクティブ: コレクティブとは、個々人が独自の個性を維持しつつ、全体と関わり、全体の動きに従属しない集団の状態を指します。この概念は、精神医学における集団療法の研究、具体的には医者と患者の役割をなくしたケア空間の設計から着想を得ており、そこでは全員が同じ服装をすることで上下関係をなくし、平等な立場での治療を目指していました。オープンダイアログやクラブ、図書館、市民運動などがコレクティブの例として挙げられ、そこでは役割が固定されず、誰もが自由に参加し、発言し、また離脱することができます。
インティマシー: インティマシーとは、事物に対する可愛げや愛おしさといった、個人的で主観的な感情を指します。特に、民芸品のような、誰か特定されない職人による手仕事の品物に対して抱く、温かみや親しみのある感情が例として挙げられました。これは、工業製品にはない、人間的な「手触り」への感覚です。
これらの概念は、庭を単なる物理的な空間から、より社会的な相互作用や人間関係の質を考慮した概念へと拡張するために導入されました。
3. 国分功一郎『暇と退屈の倫理学』を手がかりに
議論は、現代社会における消費と生産の問題を、国分功一郎氏の『暇と退屈の倫理学』を足がかりに考察する段階へと進みました。
消費社会批判と浪費の意義: 国分氏は、現代社会が記号的消費に支配されていると批判します。人々は広告によって次々と新しい商品を「消費」することを強いられ、真の満足を得ることができません。それに対して国分氏は、「浪費」を対置します。浪費とは、過剰なまでに何かに没頭し、それを味わい尽くす行為です。例えば、最新のiPhoneを次々と買い替えるのは消費ですが、歴代のiPhoneを全て集めて徹底的に比較するのは浪費です。浪費を通じて、人は初めて主体的に物事に関わり、満足を得ることができるとされます。
世界へのとどまりと動物化: 浪費をするためには、一つの「世界」にとどまる必要があります。これは、特定の価値観やコミュニティに身を置き続けることを意味します。移動し続けることは、新たな環境に適応するための「消費」を強いるだけで、浪費にはつながりません。一つの世界にとどまり、その世界で浪費を続けることは、人間を「動物化」させると国分氏は主張します。これは、人間が原始的な感覚を取り戻し、真の人間性を取り戻す過程と解釈されます。
制作への移行: 浪費を極めた先に、「制作」の段階があるとされます。浪費によってもなお満たされない何かを求めて、人は自ら何かを生み出すようになるのです。これは、大学で特定の学問分野を極めた者が、最終的に博士課程に進み、新たな知を生み出そうとする過程に例えられました。
4. 中動態とSNSの問題点
次に、能動と受動の中間に位置する「中動態」という概念が議論の中心となりました。
中動態の再評価: 中動態とは、行為の主体と客体が明確に分離されない状態を指します。例えば、「私は本を読む」は能動態、「本が私に読まれる」は受動態ですが、「私は読書に没頭する」は中動態です。かつて、西洋哲学では能動と受動の二項対立が支配的でしたが、近年、中動態の重要性が見直されています。
SNSと中動態: 国分氏は、中動態は現代社会では失われており、それを回復すべきだと主張しました。しかし、議論では、SNSはむしろ中動態を過剰に実現しているのではないかという意見が出されました。SNSでは、ユーザーは自ら情報を発信しているようでいて、実際にはプラットフォームのアルゴリズムによって行動を誘導されています。ユーザーは、自分が主体的に行動していると思い込みながら、実際には受動的に消費させられているのです。
庭における中動態: 一方、庭は健全な中動態を実現する空間として位置づけられました。庭では、我々は植物の世話をしたり、景色を眺めたりしますが、それは完全に能動的な行為でも、完全に受動的な行為でもありません。我々は庭と関わりながら、庭の変化に影響を受け、また影響を与えます。庭は、我々が中動態的な関わりを通じて、世界との「手触り」を感じられる空間なのです。
5. 庭の限界と戦争の誘惑
庭の持つ可能性が議論された一方で、その限界についても指摘されました。
庭のスケールの小ささ: 庭は、個々人が世界と関わるための有効な空間ですが、その影響範囲は限られています。庭は、基本的には個人的な空間であり、社会全体を変革する力は持ちません。
戦争との対比: ここで、議論は「戦争」という衝撃的な概念へと展開されました。戦争は、庭とは正反対の、破壊的で暴力的な現象です。しかし、戦争は、庭と同じように、世界が劇的に変化する空間でもあります。戦争では、日常が破壊され、全てが流動的になります。この点において、戦争は、庭と同じように、人々に「世界との関わり」を強く感じさせるのです。
戦争の誘惑: 議論では、庭のスケールの小ささと比較して、戦争ははるかに大きな変化を世界にもたらすため、人々は戦争に惹かれてしまうのではないかという懸念が示されました。庭は平和だが、変化の乏しい空間です。一方、戦争は暴力的だが、世界を劇的に変える力を持っています。このため、現状に不満を持つ人々、特に社会との関わりに飢えている人々にとって、戦争は魅力的な選択肢に見えてしまうのです。
6. 弱者のための庭:コミュニティを超えて
議論は、庭を社会的に弱い立場にある人々にも開かれた空間にするための方法を模索する段階へと移りました。
コミュニティの限界: コミュニティは、共通の価値観や目的を持つ人々の集まりです。しかし、コミュニティは、その内部に結束を強める一方で、外部に対して排他的になりがちです。特に、社会的弱者はコミュニティから排除されやすいという問題が指摘されました。
コレクティブの可能性: コミュニティに代わる、より開かれた集団の形として、「コレクティブ」の概念が改めて注目されました。コレクティブは、個々人の独立性を尊重しつつ、緩やかに連携する集団です。そこでは、役割や上下関係は固定されず、誰もが自由に参加し、貢献することができます。
アグリゲーターの役割: 「アグリゲーター」という、特定の目的に応じて人々を集め、チームを編成する役割を担う存在が提案されました。アグリゲーターは、コミュニティのリーダーのように固定された権力を持つのではなく、プロジェクトごとに柔軟にチームを編成し、解散します。
チョンキンマンションの「ついで」のネットワーク: 香港のチョンキンマンションにおける、タンザニア商人のネットワークが、弱者救済のモデルとして紹介されました。彼らは、「金が余っている時は他人に奢る」というルールに基づき、「ついで」の関係性を通じて助け合います。このネットワークは、SNS上の掲示板などを利用して、緩やかに維持されています。
7. 結論:庭師としてのシビックテック
議論の最後に、庭を社会に広げていくための具体的な方法として、シビックテックの可能性が提示されました。
シビックテックによる制度設計: シビックテックとは、テクノロジーを用いて社会課題を解決しようとする活動です。議論では、シビックテックによって、庭のような空間を都市の中に多数生み出していくことが提案されました。
庭師の役割: このような空間を作り、維持していく役割を担うのが「庭師」です。庭師は、特定のコミュニティに固定されることなく、様々な場所で庭づくりを行います。
スケールの問題への処方箋: 庭のスケールの小ささは、多数の庭師が活動することによって克服できるとされました。個々の庭は小さくても、それらがネットワーク化されることで、社会全体に影響を与えることができるのです。
8. 図書館の試みと今後の展望
議論の最後には、ご自身が運営する図書館も、庭としての空間づくりの試みであることが言及されました。そして最後に、この議論全体を踏まえて、松本氏がシビックテックにどのように関わっていくのか、その動機について考察を深め、レポートを終えています。
この詳細な説明が、議論の理解に役立つことを願っています。