マトリックス的な虚構/VR、その存在が脆弱であることが本質的な問題なのかも
いわゆる「現実」とか「物理世界に質量があるもの」と比べて、マトリックス的な虚構/VRは外部要因によって簡単に存在が揺らぐ 馬路ゼミ論考1Sセメで倒せなかった「経験機械的な現実の何が悪いのか」みたいな主張に対しての良い打ち返しな気がしているblu3mo.icon*2 その上で、どうすればバーチャルな現実の存在をもっと反脆弱にできるのか、という技術的問いに取り組める
他人に説明できるほど文脈を補完できていないが、結構大事なことを言っている気がするblu3mo.icon*3
ChatGPTが完璧に理解して文脈を補完してくれたblu3mo.icon*2 文脈1:物理的現実とマトリックス的仮想世界
「現実」と呼ばれるもの、つまり質量や物質性をもつ物理世界は、私たちが「外部世界」として参照できる比較的安定した実在を備えています。 もちろん物理世界に対する懐疑(Descartes的懐疑、水槽の脳など)は可能ですが、通常は実験可能性、他者との共有可能性、物理定数や法則の安定性などによって、その「実在性」は広く受け入れられています。 少なくとも、多くの人はそれを虚構と一蹴するより、持続的な存在基盤として信頼しています。
一方、マトリックス的な虚構、つまり完全にシミュレートされたVR世界は、往々にして「外部からの干渉」によって簡単に存在が揺らぐと考えられます。 たとえば、VRヘッドセットの故障、サーバーエラー、バグ、電源断など、技術的要因によってその世界は簡単に崩れ去る可能性がある。
また哲学的な意味でも、もし他者がVR世界を制御可能ならば、その世界観や価値観は一瞬で書き換えられ、「信じられていた現実」がただの操作可能なデータに過ぎないことが暴露される。
こうした脆弱性は、物理的現実と比して仮想的現実が「存在論的に頼りない」と感じさせる根拠の一つです。 文脈2:「経験機械」批判に対する新たな切り返し
哲学者ロバート・ノージックが提示した「経験機械(Experience Machine)」の思考実験は、「もしあなたが任意の幸福で満ちた経験を味わえる仮想装置があったとして、それに一生接続することを選ぶか?」という問いを通じて、ただ主観的な快楽や満足感を与える虚構的世界に閉じこもることの問題を提起しています。 「そんな仮想世界に閉じこもったって良いじゃないか。何が悪いのか?」という主張に対して、従来は「それは実在的価値を欠いている」あるいは「本当の他者や意味関係がそこにはない」などと反論しようとしても、必ずしも決定的な説得力を持てない場合がありました。
そうそうblu3mo.icon*3
ここで持ち出せる論点として、仮想世界(経験機械的現実)は外部からの干渉や中断によって簡単に「存在の基盤」が崩せる脆弱なものだという点が挙げられます。
つまり、「経験機械的な現実」は、現実としての地位が不安定であり、脆弱であること自体が問題だ、と言えるかもしれない。
この脆弱性ゆえに、「そこに生きる」ということが必ずしも信頼に値しない、もしくは実在的価値が希薄であると感じられるわけです。
文脈3:反脆弱性(アンチフラジリティ)の概念との関わり
ナシーム・ニコラス・タレブが提示した「反脆弱性」とは、変動・揺らぎ・ストレスを受けることによって、むしろ強化され、学習し、より適応的になる性質を指します。通常の脆弱性とは逆で、ショックがあるほど強くなる存在のあり方です。
物理世界は少なくとも一定の「頑丈さ」をもち、ある程度の外的衝撃を吸収し、持続・進化しうる基盤(生態系、自然法則、人間社会の歴史的積み重ねなど)を備えています。
それに対し、今日のVR世界は「電源を落とす」といったシンプルな外的衝撃で崩壊する脆弱性があります。
この脆弱性を減らし、変化や干渉にさらされるほど、むしろ体系的に強化されるような「反脆弱」的なVRを構想することは技術的・哲学的な課題となり得ます。
文脈4:主観的・間主観的な現実の構築と独我論の回避
VRは当初、ユーザー個人の知覚世界(主観的現実)を人工的に構築する技術として理解されがちです。
その場合、VRは極度の主観主義に陥り、他者との共有や合意形成が困難な「独我論」的世界になりやすいと考えられます。
独我論的VR世界は、ユーザー個人の経験を最大化できる一方で、「自分以外の主体的他者が存在する」という感覚を正当化しにくい。
これでは社会性や意味形成が困難になり、「反脆弱性」も確保しにくくなります。
これに対して、複数のユーザー間で共有され、相互に検証・変更・発展が可能な「間主観的VR」が考えられます。
すなわち、複数の主体が参入し、そこに合意や共通のルールが形成されることによって、そのVR世界はただの主観的虚構にとどまらず、ある種の「社会的実在」へと近づくでしょう。
こうした間主観性が確立されれば、VR世界は単なる脆弱なシミュレーションではなく、他者との関係性や合意に基づいて強化されるプラットフォームになりうる。
これが「反脆弱なVR存在論」への一歩になるかもしれません。
まとめ
以上のように、この文脈においては、「なぜ経験機械的な現実が問題なのか?」という問いに対して、「それは外部からの干渉に弱く、存在論的な脆弱性を抱えている」ことを指摘でき、その上で、「どうすればVR的な現実をもっと反脆弱にできるのか?」という技術的・哲学的課題につなげられます。
また、独我論的なVRではなく、間主観的(他者共有可能な)仮想世界を構築することで、VRも単なる脆弱な偽物ではなく、社会的・関係的文脈の中で強化され得る存在へと転換できる、という展望が開かれます。