2017/0306 ジョナサン・デイトン & ヴァレリー・ファリス監督『リトル・ミス・サンシャイン』
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イマイチな映画だなあと思いながら、最後にオリーヴがダンスをしはじめたあたりで、あっという間に感動の渦に投げ込まれてしまった^^/ ラストスパートの見事さが光る作品として、これは最高の部類ではないかと感じ入りました。
この映画、エスタブリッシュメントへの反感を描きながら、アメリカン・ドリームには不可欠な「努力すること」を否定していません。そのような映画が監督夫妻の努力によって、結果的に100億円を超える興業成績につながるあたりが、いかにもアメリカ的です。
1. リーマン・ショック直前の典型的な家族像
それぞれに「負け犬」でバラバラの家族たちが、小学生の娘オリーヴの少女ミスコンへの出場に向け、マイクロバスでともにする1,300キロの道行きが主な舞台です。苦難の旅を通じてしだいに家族の絆を強めていくところに、いかにもロードムービーらしいこの映画の味わいがあります。
彼らの負け犬ぶりはといえば、くわえタバコを吹かしながら運転する母親シェリル、売れない成功ガイドブックにしがみつく父親リチャード、ヘロイン中毒で老人ホームを追いだされた祖父エドウィン、ニーチェに被れニヒルに無言を通す色弱の長男ドウェーン、そして、ゲイの恋人に振られた挙句、プルースト研究のお株を奪われて自殺未遂に走った叔父フランクといった具合。
それでもこの家族、たんに負け組の生活に埋もれているわけではありません。父親リチャードは、口癖のように自説の「成功の9段階」を家族に説いて聞かせ、勝ち組になるには努力が必要だと、ことあるごとに家族に語りかけます。でも、ところかまわず自説を振りまく父親に、みんなウンザリしています。
おそらくこの家族の姿は、映画が作られた2000年初頭のひとつの現実だったのでしょう。2006年の公開まで、制作に5年を要したといいますから。当時といえば、2008年のリーマン・ショックに向けてアメリカが住宅バブルに湧き、金融界を舞台に社会が狂乱へと突き進んでいったまさに最終局面の時代です。
これといった収入もなさそうなフーヴァー一家が、ベッドルームが4部屋はあると思われる立派な住宅に住んでいるのも、割安の頭金と期限付き低額返済住宅ローンで住宅を手に入れることができた当時の住宅事情を伺わせます。そして、とりあえず住宅は手に入れたものの、何とかして旗揚げしないと負け組になる、そんな焦りが家族のいら立ちの深層に横たわっている様子が感じられます。
2. 映画のベースにある勝ち組への反抗心
フーヴァー一家の生活を特徴付けるのは家族の人となりだけではありません。映画に登場する生活風景、重要な脇役となる黄色のポンコツのマイクロバス、クライマックスを飾るオリーヴのダンスなど、多くの要素が重要な映画の性格付を担っています。これらの性格をひとことでいえば、勝ち組の価値観への反抗心といえるのではないかと思います。さまざまな要素が、勝ち組の価値とはおよそ相容れない世界を象徴しているように見えます。
例えば、フォルクスワーゲンのマイクロバスは、文字通り「大衆」車です。鮮やかに塗られた黄色も、危険や警戒を表すだけではなく、宗教的あるいは思想的な反や負のイメージを象徴するものかもしれません。$ ^{1)}
夕食はとえいば、毎晩のようにフライドチキンです。マイクロバスは、旅の途中でクラッチが壊れ、押しがけをしないとエンジンがかからないポンコツです。さらに、祖父がオリーヴに夜な夜な教えたダンスはといえば、ストリップまがいの怪しいダンスなのです。
その祖父の生きがいだったヘロインは、州によっては医療目的での使用が条件付きで認められているとはいえ、映画に描かれた利用は違法としかいいようのないものです。
フーヴァー一家が住居を構えているニューメキシコ州も、決して経済的に恵まれた地域ではありません。映画が公開された2006年における同州の貧困率は、アメリカ50の州のうち47番目であるうえ、$ ^{2)}犯罪率が高い州の一つとしても知られています。
さらに、叔父が憧れるフランス人作家のプルーストも、長男が敬愛するニーチェも、偉大とはいえ文学界の異端児です。叔父とプルーストが結び付けられているのも、少数者として生きる同性愛者を強調するためでしょう。
要するに、彼らをとりまく一切合切、一部始終が、アメリカの勝ち組が誇りとする要素とは無縁だったり、価値に反するものばかりなのです。その延長で考えれば、リチャードがしがみつく「成功の9段階」やドウェーンが憧れる空軍のテストパイロットにも、アメリカ的な成功へのルールを囲い込んでしまった自分たちへの、乾いた皮肉が込められているのかもしれません。
こうして二人の監督が、異端、不道徳、違法までをも動員してフーヴァー一家を勝ち組から隔てみせるのは、監督自身が抱く勝ち組の価値観への反感と、そうでなくても生きていけるという自負や意志、そして勝ち組によって規定された社会ルールへの抗議の現れではないかと思います。
3. 負けを超えていく家族
そんなヴーヴァー一家ですが、それでもなお彼らは、負け組にいる自分たちを卑下しているわけではありません。リチャードは、「成功の9段階」が売れると口約束して果たそうとしない仲介者の男に抗議するため、短パン姿でバイクにまたがり、セレブ達が集うパーティー会場へ乗り込みます。
クラッチが壊れて走らなくなったマイクロバスを走らせるのも、家族全員が力を合わせてバスを押すからです。さらにこのバス、クラクションが鳴りっ放しになる災難をもたらしますが、誰ひとりとしてボンコツを負い目に感じている様子はありません。
また、困難の前に負け犬になりそうなときでも、気持ちを奮い立たせて前に進もうとします。宿泊先のモーテルで祖父エドウィンが亡くなったあと、家族は意気消沈し、コンテスト会場を間近に出場を断念しアルバカーキに帰ろうとしますが、このとき家族を思いとどまらせたのも父親リチャードでした。彼はつぎのように家族に話しかけます。
負けることがいけないんじゃない。努力しないことがダメなんだ。最後まで頑張ろう。諦めてはいけない。このまま帰ったら、オリーヴにダンスを教えたオヤジが浮かばれない。
こうして家族は、負け犬になりそうな危機を何度も掻い潜り、目的意識を取り戻します。そして、エドウィンの遺体をマイクロバスに隠してまで、コンテスト会場を目指して走り続けるのです。
4. 勝ち負けを超えてつかんだ家族の絆
しかし、このあとまた、取り戻したはずの努力と目標への挑戦意欲が、再びヘナヘナと崩れそうになる場面が訪れます。コンテストに参加している少女たちの演技の完成度の高さに圧倒され、家族全員がオリーヴへの自信を保てなくなるのです。このときはさすがのリチャードも、負け犬の意識に陥ります。しかし、ここでダンスを放棄すれば、家族は少女ミスコンという勝ち組の威力に完全に打ち負かされたことになります。
この不安のなかでオリーヴが一念発起します。オリーヴは「わたし、やるわ!」とステージに臨みます。そこでオリーヴが見せたダンスは、踊りながら服を脱いでいく、ストリッパーまがいのセクシーダンスだったから大騒動。主催者は「あの下品な小娘を、すぐにステージから引きずり下ろして!」と叫びます。少女たちは顔を覆い、親たちも茫然自失するなか、音楽担当や司会者はノリノリの様子。スピーカーからは"Super Freak" を歌うリック・ジェームスのきわどい歌詞、
「アイツはかなり倒錯した女
母親に会わせちゃダメな感じの女だよ
通りを歩くアイツをひとたび連れ出したら
いつだって必ず燃え上らせてくれるのさ
・・・」$ ^{3)}
が鳴り響き、会場はもう大騒ぎです。
この場面は、勝ち組と負け組の戦いを象徴する、映画のクライマックスといえます。勝ち組から見れば容認しがたい、少女によるストリップまがいのダンスと、非難に負けず祖父から教わったダンスで力いっぱい自分を表現するオリーヴの互角の戦いが展開します。
この勝敗を決したのは、ポンコツグルマで苦難をともにしてきた家族でした。半ばオリーブを制止しようとステージに上がったリチャードが、懸命に踊るオリーヴに引きこまれ踊り出す瞬間には、見ていてつい拍手していまいました^^/ 最初はためらっていた家族も、奮闘するオリーヴとリチャードの姿に声援を送るうち、とうとうステージに駆け上がり、オリーブといっしょにダンスに興じはじめます。こうなるともう、家族全員を巻き込んだダンス大会です。
こうして、家族は全員で少女ミスコンにはまるで場違いな、負け組ならではのクリエイティビティを炸裂させて旅の目的を果たします。もちろん、オリーヴの優勝はかなわず、騒動を受けて駆けつけた警官に、二度とミスコンにオリーヴを出場させてはならないというお咎めをもらい、解放されます。
しかし、家族にとってコンテストの勝敗もお咎めも、もう問題ではありません。彼らはふたたび黄色いマイクロバスを押しがけすると、はるかに強くなった家族の絆を携えて、故郷のアルバカーキへと新たな旅に出るのでした。
そこには、ミスコンに出場し勝つことの価値が姿を変え、勝ち負けを超えた絆を手に入れた家族の輝かしい姿がありました。その家族たちの笑顔、そしてポンコツバスの黄色こそが、まさに、映画のタイトルに込められた「サンシャイン」の本当の意味だったのです。
5. 努力を愛するアメリカ社会
この映画を観て、以前読んだ小林由美氏の『超・格差社会アメリカの真実』$ ^{4)} を思い出し、一部を再読しました。その終わりの方、「それでもなぜアメリカ社会は「心地よい」のか?」のなかで、小林氏はつぎのように述べています。
バックグラウンドが全く違い、素性もよくわからない人たちが烏合霧散を繰り返す社会には、同質の人が定着している社会とは異なるノウハウがある。(中略)それは端的に言えばプライバシーの尊重、つまり余計なことには触れないルールであり、広く薄い人間関係に集約される。そして人が集まった目的を達成することを求心力にして、それを強化・維持することが、マネジメントの基本になる。(p.242)
ダンスを終え、家族が再び黄色のミニバスを押し掛けする最後の場面、あの眩しいほどの輝きがもたらす心地良さは、結局のところアメリカならではの、クリエイティビティの尊重とマネジメント能力の賜物なのでしょう。
家族とはいえフーヴァ一一家はそれぞれのプライバシーを守り、薄く広い人間関係を集約した人の集まりでした。その薄い関係性を束ねたのが、少女ミスコンへの参加という共通の目的によってもたらされた求心力であり、目的に向かって努力を強化し維持し続ける、マネジメントの確かさにあったといえます。
このマネジメントの多くは、いささか頼りなくもあり、家族にとってははた迷惑な、父親リチャードの「成功の9段階」がもたらしたものです。そのリチャードを貫いていたのは「負けることが問題ではない。努力しないことが負けなのだ」という信条でした。勝ち組の価値観に反対を表明しながらも、アメリカ人であれば捨て去れないそのメンタリティこそが、この映画の心地良さの根源にあるのだと思います。その意味で『リトル・ミス・サンシャイン』は、まさに小林氏がいう、努力することの「心地よさ」を体現した映画でもあるのでしょう。
6. 映画によるアメリカン・ドリームの体現
さらに小林氏は、アメリカ社会の心地良さに触れたあと、それでは心地良さが継続できるのはなぜだろうかと問い、それは「クリエイティビティを事業化する」モデルがあるからだと述べています。小林氏はその例としてシリコンバレーを取り上げていますが、おそらく映画のシステムにもあてはまるのではないかと思います。
実際のところ『リトル・ミス・サンシャイン』は、アメリカのメンタリティを貫き、心地良さを表現しただけで終わってはいません。Wikipediaによれば、本作はサンダンス映画祭でのプレミア上映のあと、「フォックス・サーチライト・ピクチャーズが1050万ドルと興行収入の10%という条件で勝ち取った」とあり、さらに全世界合算での興業収入は1億52万ドルに達したとあります。
すなわち『リトル・ミス・サンシャイン』は、努力というアメリカ人のメンタリティを輝かしい映画表現に仕上げたにとどまらず、それを事業のサイクルに乗せ、しかも大きな成功を収めるところまでを実現して見せた、アメリカン・ドリームそのものを体現した現実の成功物語なのです。
さらにこの映画作品は、金融や資本にものをいわせた、その意味でステレオタイプな勝ち組のスタイルからはかけ離れています。しかし、そんな独自のやり方であっても、アメリカ的な心地良さと事業化のモデルは機能するということを実証した点でも、映画『リトル・ミス・サンシャイン』は、アメリカが合わせ持つ自由さの輝かしい証といえるのではないでしょうか。
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1)Wikipedia「黄色」
https://ja.wikipedia.org/wiki/黄色#.E8.A5.BF.E6.AC.A7
2)Hirobay「87. 格差大国アメリカの貧困」
http://www.geocities.jp/yamamrhr/ProIKE0911-87.html
3)洋楽和訳 (lyrics) めったPOPS「Super Freak / スーパー・フリーク (Rick James / リック・ジェームス)1982」
http://mettapops.blog.fc2.com/blog-entry-1748.html
4) 小林由美『超・格差社会アメリカの真実』日経BP社、2006年9月.
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