個人の有限性と見切り
1/
その2つにより、一人の人間の為せることには上限が生まれる。
あらゆることについて、ひとりの人間が書くことはできない。できることは、非常に限られた一部である。
あらゆる資料をひとりの人間が使うことはできない。数が多くなれば、情報は複雑になるし、扱うための時間も増えてくる。
もし、原理としてこれまで存在した情報や着想のすべてにアクセスできたとしても、人間の限界性によってそれらは使い切れないことになる。どうあがいても、人は断片的なものしか生み出せない。
2/
人が断片的なものしか生み出せないことは、片方では絶望であり、もう片方では福音となる。むしろ個人が生み出したものが断片であるならば、それは大きなものの一部になりうる、ということではある。断片的なものは、接続可能性を有し、全体に包摂される可能性を持つ。その点を信じ切れるならば、私たちは見切っていける。”全て”を表そうとする必要はないし、それができないからといって、失望し、あきらめることもない。それは定められた制約である。そして、より大きなものと接続するためのルールでもある。そのためには、過去の流れにのり、新しいものを打ち出す必要がある。 3/
個人は断片でしかありえない。コトしては全体でありながらも、階層を一つでも上にあがれば、断片となる。それは個人の限界をも示しているが、個人以上の存在が持ちうる力の大きさをも示している。
断片であることは、肯定的に捉えられるべきだろう。人はその全てを背負い込む必要はないのだ。ただ自分が作り出せるだけの断片を産み落とすだけで良い。これは一つの解放である。そして、その断片が全体を構成するパーツとして扱われるとき、より大きな全体が生まれてくる。自分は、その生成に貢献したと言えるだろう。そのとき、はじめて人は、個の限界を超えられる。
4/
個にできることは、個にできることだけであり、それでいて、それはより大きな一部となりうる。個の全体性に配慮しながらも、それにこだわりすぎないこと(≒見切り)が必要となる。 そのためには、過去から現在までの流れに乗りながらも、そこでまだ言われていなかったことを提出することだ。すでに言われたことであれば、パーツ的価値は薄い。かといって、まったく文脈を参照しないことは、全体の階層に位置づけることができない。つまり、同じ流れ乗りながら、それでも違うことを言うこと、言おうとする態度が個が断片となるために必要となる。
初出:2017.Jun.29 - jul 01 - 05