【レビュー】色のない緑 / バナナ剥きには最適の日々 / Boy's Surface
すべてWORKBOOK114(KUSFA)に収録されたものです。
『色のない緑』- 陸秋槎
本作は「百合SFアンソロジー」の副題で知られる『アステリズムに花束を』(早川書房)のために書き下ろされたSF中編。著者の陸秋槎氏は中国出身のミステリー作家であり、発表作としては本作が初のSF。そんな筆者が計算言語学SFのもとで繰り広げるミステリーライクなストーリーラインこそが本作の最大の特徴だろう。だが真に注目すべきなのは、SFを単なる舞台装置にとどめおかず、むしろそれを用いてミステリーの構造それ自体に挑戦をしかけたことだ。
「機械翻訳された小説を人間らしく〝脚色〟する仕事につく主人公のもとに、計算言語学の研究者となった旧友が自殺したという訃報が届き――」というSFとミステリーの融合した冒頭から本作は始まる。物語前半は自殺のワイダニットを軸に進行していくが、その試みは機械学習の説明不可能性によって阻まれてしまい、そこでミステリーとしての物語は一度崩壊する。というのもミステリーは解明を至上命題とするために、SFによって不可能をつきつけられれば行き先を失ってしまうのだ。物語中盤で主人公たちが直面するこの「解明不可能」という障壁は、同時にミステリー作家としての筆者の挑戦でもある。
軸を失ったかにみえる物語はしかし、次第に一点へと収束しはじめる。巨大なSFの力に打ちのめされた主人公と物語は、そこから結末を探すかのように動きはじめるのだ。そして物語後半では主人公たちの個人的なイベントにスポットライトが当てられるようになり、ついに「ミステリー」は新たな終着点を発見する。それは脱個人的な「真相の解明」(真実はいつもひとつ! と言われるようなもの)ではなく、個人的な「死の解釈」だった。最後に主人公は決して真実とは断言でれないようなものながらも、結論へと辿りつく。しかしそのカタルシスは雑然とした謎に整理された筋を与えるという点でミステリーそのものであり、著者はここに「ミステリーという枠組みは、真実と断絶された程度で成立しなくなるようなやわなものではない」と証明したのだ。
テーマである「百合SF」の言葉通り、本作には計算言語学をベースに創り出された興味深いSF的空想が余すところなく細部まで詰めこまれ、情緒的な百合と共に物語全体を彩っている。しかしそこには同時にミステリーへの深い造詣によって生み出された「ミステリーの崩壊と再生」という斬新な挑戦が描かれているのだ。
『バナナ剥きには最適の日々』 - 円城塔
円城塔作品における物体どうしの関係というのは、どこか殺伐としている。ここで殺伐としているというのは、二文字で説明が終わるくらいあっさりしていて後味がいいという意味である。情動をベースにしつつも、理性だけであらゆる物体が駆動する。この短編集の中からいくつかそんな作品をレビューしよう。
『祖母の記録』は兄弟二人で植物状態の祖父を動かしてコマ撮りの映画を撮影する話。こう書けば劇物だがご安心を、丁寧に理性の膜で包んであるので嚥下しても問題ありません。あと祖母を動かそうとする彼女もいます。ここでもまた不合理な情動の上に理性的な会話が交わされる。人間は理性をベースに感情で動くものだが、私含め円城塔ファンはそれをひっくり返した世界をどうしようもなく愛しているのである。
表題になっている『バナナ剥きには最適の日々』はまさしく円城塔の特徴が詰まった一作。無人宇宙探査機の高度機能中枢である「僕」が、何千年にもわたって宇宙を旅しながら思考逸脱阻止回路に気付かれないよう理性的に妄想し続けるという話。偏執的なまでに理性的という円城塔の特徴が設定にそのまま表れており、平素な文体で舗装されたなめらかな急傾斜が癖になる。
人間を組み立てて、『Jail Over』する話。わたしとは何なのか分からなくなってしまうのは次の『墓石に、と彼女は言う』にも共通するテーマだが、こちらは幾分か即物的である。解説によるとホラー初挑戦作とのことだが、円城塔らしい展開とホラーは幾分か相性が悪いんじゃないだろうか。良い意味で。惨憺たる描写はあるが、そこから理性に派生していくので爽快感がある。スプラッター映画で人がぽんぽん死んで気持ちいい、というのとはまた違ったコミカルホラーの形がここにある。
ゾウリムシを寿命が縮む方向に進化させようとする『捧ぐ緑』では、学会がぬるっと濡れ場に移行する。濡れ場といえば『Self-Reference ENGINE』収録の靴下と一夜を過ごす話が思い出されるが、まだそちらのほうが濡れ場らしい。こっちは人間なのに。だからこそ、人間の人間らしい仕草に心が揺さぶられる。
「どちらかというとわかりやすい」――そんなキャッチコピーが付いていた本短編集だが、その文字通り収録されている短編は思考実験を追体験しているかのように頭に入ってくる作品がほとんどである。最初に異常なものを置く。たとえば愛とか執念とか不安とか感情とか、あるいは愉快な妄想のことだ。その歪んだものを決して損なわないようにしつつ理性だけで育てたなら、その初期条件の違いは最後にどうなってしまうのか? この短編集ではそんな違いが楽しめることだろう。それを学んだなら、ぜひ自分で試してみてほしい。あなたの中にある愉快な妄想や不条理たちを、現実の枠を取っぱらって進むべきところへ進ませてあげるのだ。ここに描かれているのは、純粋なSF的想像力の結晶である。
『Boy's Surface』 - 円城塔
表題から「Boy's Surface」はレフラー球という構造を見た盲視の数学者の物語。しかし語り部は人間ではなく、彼が遺した無限の構造そのものである。有限の空間の中に無限が埋め込まれる恋愛ものといえば映画化もされた『Hello World』(野崎まど)があるが、この2作を比べると作風の違いが大いに表れていて面白い。この紙面に書かれているのは実は文章ではなく図形なのだという錯視のような発想が、滑らかにメタフィクションへと接続し、物理的にも物語的にも奥方向へと広がっていく。思索に思索を重ねた末に、実体をたたみかける記述で幕を閉じる。空想が突然にして現実に近づいてくるクライマックスは、まさしく正統派のSFだ。
「Goldberg Invariant」は数学を舞台に繰り広げられる攻防戦のさなか、テキストベースの仮想世界に自動テキスト生産エージェントを投入するという話。解説に「関数接続のように書かれた」とある通り、繋がりがないようである論理的な法螺が連続的に展開される。テキストの世界を探索していくエージェントたちは、重さを名付けて創り、上を名付けて上を創り、平面を名付けて創り、ときに自らの死を名付けて死んでしまう。
色々と注文されながら、読者のなかから恋愛小説を描き出す『Your Heads Only』、そして二十一世紀を救うべく苦闘する『Gernsback Intersection』は繋がる内容を多く含んでいる。メタの登場などは日常茶飯事であって、そこからもう一メタ伸びるのか、あるいは無限メタ伸びていくのかが問題になってくる。第三短編は作中の「誰だって変わっていきはするのだが、一貫性をもってしか変わることのできない人がたまにいて、それは結局何も変わらないことと変わらない」という一句を体現したかのように一見してランダムに展開していくが、ではそれは別種の一貫性があるのではないか。だって物語だし……そんなふうにして読者の中にメタが回り始めていく。
『Gernsback Intersection』は『バナナ剥きには最適の日々』で書いたようなSF的空想の方向とは逆向きに生み出された短編だ。数理的な事実からはじめて、それを物語や思考にコンバートしていく。科学によって解き明かされる、時に奇妙ともいえるこの世界の性質は何のメタファーなのか? 来るべき二十一世紀と特異点との邂逅に向けて世界の舵取りをすることになる少女と、ふたつの未来が描かれる。
どんどん分からなさの増す四編の後には、なんだかわかった気になれる解説が待ち受けている。曰く、一番最初の短編以外は匿名で送られてきたものを書き写しただけだとか。「なるほどね」と呟いて本を閉じて、わからないということがわかれば十分なのだろう、と思う。