驚きのパラドックス
確率が低いことは常に起こっているので、確率が低いだけで驚くのもへんだ
表表表表←おどろく
表裏裏表←おどろかない
この特定の並びが起こる確率はどちらも1/16だ
分かった、驚きとは (今までのどこかに誤りがあるなど)今まで持っていた信念を変更しなければならない ということの表現だからだ
以下のようにいったほうがいいか:
ある観測データeの、今信じられている仮説$ h_1のもとでの尤度$ P(e|h_1)が低く、かつ、他の仮説$ h_2のもとでの尤度$ P(e|h_2)は高いとき、その観測データは驚きである。
〔追記: 帰無仮説を棄却すべきという場合、とも言えそう?〕
(内包的に指定された事象か、外延的に指定された事象かで驚きは変わるのか。(全く同じ事象を外延的にも内包的にも指定できるのだけど)
外延的に指定された事象によって変更されるのは難しい
内包的に指定された事象によって変更することはできる)
じゃんけんで10連勝していた人が居たとしよう。($ 3\times 3のパターンのうち、勝ちのパターンが3つ、負けのパターンが3つ、あいこも3つだから) その確率は$ \frac{1}{3^{10}}で、「勝負負勝勝 勝負勝勝負」という結果になる確率と変わらない。
しかし、前者(10連勝)の場合にのみ、この人がじゃんけんで勝つ可能性はランダム($ \frac{1}{3})である(あいこ:1/3, 負け:1/3)という我々のもともとの信念が間違っていて、変えなければならないのではないかと考える根拠になる。
実は勝利確率は1/3ではなく、たとえばいかさまを行っていて99%勝てるという仮定のもとでは、10連勝という観測データを現在の仮説よりよく説明できる。
いくらコインを投げて表が出ても、事前分布によっては1/2のフェアなコインとしか考えられないかもしれない。
自然種というのが事前分布を与えるのではないか
(カーネマン: 代表性ヒューリスティックスで、表裏裏表はフェアなコインの典型的な事例に見えるのに対し、表表表表は「比が偏っている→典型的でない→珍しい」(大きなサンプルサイズのほうが典型的と考える)と判断されるからという説明もありうる)
ネルソン・グッドマン「relevantな種」
じゃんけんで交互に勝敗を繰り返したとして、それが偶然でないというのは難しい (背後にどんなメカニズムがあるというのか?)
敗北を繰り返したとすれば、仮に同じ数であっても、それはパターン(弱さ)の表れと考えやすい
そう考えた時に、世界に生物が存在可能なのは驚きだろうか?
cf. リチャード・ドーキンス『盲目の時計職人』
しかし、この理屈を用いて、生命の存在が驚くべきだから多宇宙の存在が推論できるかを問うことはできない。なぜなら、「驚きであるか」という問いが、「信念を変更すべきか」を知らなければ回答できなくなり、この事自体がまさに問うていることだから。
ベイズ的な審判は初手エクゾディアが揃ったという時点で反則であると主張できる…? (反則だと主張できる他の証拠も確率的なものにすぎないなら、なぜ初手エクゾディアという反則の確率がすごく高いものをそれ自体反則の証拠とみなせないのか)
めっちゃたくさんの試行をすればその中に初手エクゾディアがある、という確率は一定以上にできるので、今見ている試合について初手エクゾディアが出たら反則だろうというのと、初手エクゾディアの話を聞いたら即反則だろうというのは異なる
この話って上の話と関係ある?