嫉妬と公共選択論
たしかに人は多数の人の小さな損害に大した注意を払わないのだけど、他人が大きな利益を得ているということには注意を大きく払い、またしばしば否定的な反応をするので、単純な公共選択論モデルが予測するより我々の社会はconcentrated benefits and diffused costsに強い作りになっているのではないか
一見、他人が大きな利益を得ていることに否定的な感情をいだくというのは、功利主義からすると悪い性向のようだが、しかし、concentrated benefits and diffused costsという観点からは社会に役立つものなのかもしれない。
ここでいう、大きな利益というのは、集中しているため個々には大きいようなもののことで、
反発の有無が他人の大きな利益が何によるものか問わないなら、それが同時に社会の効率性にもつながっているのは単なる偶然でしかないというふうに考えられそうだけど、どうも何による利益なのかを一応気にして反発を持つ人が多いらしくはあるので偶然でないという仮説もありえる。
「自分たちが払う税」は分散されているので (とくに高い税を払っている人以外には) 見えにくいコストだが、「それによって得する人」を意識することはその税が集中して少数に行き着くならそのコストを見えやすく可視化する効果を持っている。
関税によって消費者が少し高いものを買うようになるのはとても見えにくいコスト、それによって得する国内農家に注目することで可視化
少し話は変わるが、カンニングによるコストは本当は
テストの結果が本当に測りたいものではなくカンニングのうまさによるようになる
それに感づいた試験者の努力の方向も <<測りたい指標>> を改善することではなくカンニングのうまさを改善する努力に費やされることになる
ことであって、試験の結果に基づいて採用などを決める人々の不利益がそのコストであって、他の試験者の不利益ではない。
すごい人が報われて良い状態になろうが、だめな人が良い状態になろうが、その時点で世界が滅ぶとすれば功利主義的には同じ価値しかもたない (つまり上のような未来に与える影響が大事)。
だから、「他の試験者に不公平になります」というのは注目点を間違えているのだが、上に言ったような本当のコストは現在のことではなく、見えにくいコストだから、他の試験者のいま失われた利益という見えやすいコストに注目することのほうが、人に訴えることができる。
違法ダウンロードの害も本当は作者の不都合やお金をかけて買った人の嫉妬心をくすぐることではない
お金をかけて買った人に不公平ですっていうのは「自分が苦労したのだからお前も苦労しろ」的な理屈にも見えるよね
真犯人以外の人が裁かれ刑務所に入れられても功利主義的には罪人と無実の人間に内在的な価値の違いは存在しないからこの2人について言えば、真犯人が裁かれた場合と価値は変わらない(どちらも1人が拘束された)。ただし、犯罪の抑止につながるかという違いがあるので他の人を考慮すれば功利主義的にも違いがある。ここで拘束された無実の人に注目すること。
もし無実なのにという期待を裏切られたときの失望に内在的な価値を認めるなら、家柄が地位を与えるという期待を持った人間が期待を裏切られて生じる効用の損失も同様に考慮すべき(ということになる)
人が死んだときの悲しみが人が死んだとき喜ぶ人の喜びより優先されるべきという理由はない
〔追記: これは功利主義の controversial な部分ではある〕
この場合に、誤ったことを言ったのではなく、「見えにくいコストを見えやすいコストに可視化した」と捉えることができるか?
〔追記: これは「人は功利主義と異なる価値観を持っているのではなく、実は混乱した功利主義者なのだ」のように解釈しすぎている〕