クリプケンシュタインのパラドックス
規則性説、傾向性説
傾向性説: 有限性の問題、誤りの問題、規範性の問題
規範性の問題: 傾向性は、どのように記号を使うだろうか (would) を言うのであって、どのように使うべきか (should) を示すことはできない。
以下は特に何にも基づかない独自考察
「いままでにかくかくの仕方で自分・他人に使われていた」など、意味の自然主義的理解を知ることは、現在どう使うべきかについて理由 (動機づけ? 正当化?) を与えるか
1) 笑いが存在する適応的説明を知ったとする、2) 私は突然変異によってその適応的な仕方では笑わないとする、このとき私は(1)の知識によって意識的に(2)をオーバーライドする動機を持つようになるのか
(聴者にある反応を引き起こすために使うことができることが分かったなら、その反応を引き起こしたいときに使えばいいのでは)
規範性の問題をそのように扱うとすると、過去どのようにあったかについての事実が現在どうするべきかを動機づけるには「過去の運用と一貫した使い方をしたい」というような何らかの欲求を措定することでしか解決されない (欲求イン-欲求アウトの原理) 気がする
「いい点を取りたい」という欲求によって説明されるように見えるが、しかし教師を自動機械ではなく合理的主体として扱って自分の行動の意思決定に用いる限り、点をつける上での教師の振る舞い自体が教師の立場から合理的なものとして予測できないといけない。
(これを意思決定理論の枠組みで考えることができるかもしれない)
そこで、結局「点をつける上で、言葉の意味について一貫した解釈を行っているような付け方をしたい」という欲求を教師に措定せざるを得ない気がする。
コンピュータが採点する場合で、「いい点を取りたい」という欲求を持つ場合は問題ないように思えたが、プログラマがクワス算を仕込んでいない可能性は実際に機械の内部を見ないと否定できない
意味理解自体が指令的側面を持つという考えと、「意味に即した使用を行いたい」という追加の欲求を措定する方法
pという意味を持った発話uは、uを言ったのを聞いたことで聴者がpを信じるだろうという信念と、pであると聴者に信じさせたいという欲求から説明される (グライス)
これは表面上uという発話の意味を発話されたあとに事後的に与えるものになっている
「もしいまuと発話したとしたら、その意味はpだろう」と分かることは、uを発話するときの理由を一人称的な観点から与えるか?