ウォルター・ブロック『擁護できないものを擁護する』
麻薬は依存させれば確実にリピートするから一番儲かる仕事だって聞いたことあるけど、それは独占事業だからに過ぎないんだなー
麻薬の使用者を取り締まるけど売り手は取り締まらないとすればブロックの言うような問題は無くなるのではないか。
麻薬の場合、売春のようなサービス業と違って売り手と買い手の区別はそれほど明らかではないが。
「満員の映画館で火事だと叫ぶ」のは、そんなことしないという契約をチケットに書いておけばいいと言ってるけど、不完備契約がどうのってツッコミされそうね。
ブロックによれば、暴力を背景にしない脅し(恐喝)はリバタリアン的に許容される。なら恐喝に基づいた政府を作ればリバタリアン的に問題ないかもしれない ジョン・エドガー・フーヴァー?
恐喝
ウォルター・ブロックは恐喝は裏付けとして自分の権利の範囲内にあることを使って脅してるだけだから脅迫と違っていいみたいに言っていたけど、脅迫も恐喝もコミットメントメカニズムが必要で本来やりたいことではないけど相手に対する罰として行うコミットをするという構造は共通してるから同じように扱うというのもありそう?
売買契約などもコミットメントなわけだから、それも同じように扱われてしまい、あまり意味がないか
ayu-mushi.icon国家による介入が全体的に良い影響を持っているのかについて、国家による保証のない違法な商売を調べることでわかるので、違法な商売を調べるのはいいかもと思ったけれど、それも結局暴力団とかが間に入って契約の履行をしているから、結局強制力に頼ってるのかな。
違法な商売でも成立しているなら、国家による保護がなくても経済が成立しうるという証拠になる
うーん、いや、違法な商売は逮捕されるので、ある意味でめっちゃ国家の介入を受けているような気もするけど
参入しても逮捕されるので新規参入が制限されてる、という形の国家の介入
著作権がいい影響を持っているかどうかについて、著作権による保護を受けられないアダルト系を調べることで研究するみたいな話があったような
違法なダウンロードの界隈では違法なのになぜか礼儀正しかったという話があるけど実は取引の信頼性が国家によって確保されてないという状況では礼儀が重要だったという説 (っていっても、ありがとうございますみたいな挨拶がちゃんとしている程度の話だった気がするけど)
(ブロックの本から話題が逸れるけど) "国家内と国際秩序を比べる"というのもいいかもしれない 国際秩序はアナーキーにちかいので、アナーキーに寄せた場合にどうなるかということを考える題材になる (アクターの数が少ないけど)
地球温暖化は解決できないが国内の公害は解決できるという場合 (実際そんな感じのイメージがある)、「国家は外部性の問題の解決に役立つ主要な手段である」という主張の根拠になる
もし国家が唯一な手段でないとすれば、地球温暖化も解決するかもしれないし、アナーキーも成立するかもしれない(?)
オゾン層破壊とかは国際協調で解決したっぽいけど
じっさいオゾン層破壊が公的利益 > 私的費用という意味でのフリーライダー問題になってるのかは知らない
「政府が集合行為問題を解決する主要な手段」という主張から自然に導かれるのは、国際政治論における現実主義 (realism) のような世界観 (国家内部での集団行為問題は無視でき、国は国益を追求するとモデル化できるが、国同士の協力はできない) かも
研究開発には外部効果が大きいとされているけど、実際には研究開発への支出金額は民間によるもののほうが大きい。これは政府が市場の失敗を是正するのを怠っていると考えられる。国内であっても、効果が出るまでに時間差がある場合、政府は市場の失敗を解決できないことが推測される。研究開発には国際的な外部性もあるだろうけど(国際的利益を考慮しなくてすら現実の支出は過小なんだと思うけど)。
ウォルター・ブロックは、販売価格を競争価格より安く設定する映画放映側の動機を「行列を作らせてにぎわってるふうにさせたい」としてるので、動機を「常連ではなく新しい顧客を獲得するために安くする」と仮定した場合よりも、転売の社会的利益が多く見積もられそう?
もし後者の場合、転売されると支払い意思額の高い常連客がチケットを手に入れることになるので、映画放映側は損してしまう
そもそも映画って競争成り立つの?
労働者が労働時間を自由に変えられるみたいなモデルなら、給料が高い人は列に並ぶよりも残業を増やして給料を増やし、給料の低く、「時給×並ぶ時間 > 転売から得られる利益」の人は列に並んで転売する、みたいなモデルもできそう?
現実に労働時間を増やして給料を増やすムーブができない以上意味ないのでは
残業して頑張って昇進するみたいなことはいつかはあるだろうから、チケットの列に並ぶというまさにそのときに残業しなくても、どこかでそういうことをすれば、長期的には成立するのでは
そうすることで、チケットの列に並ばないときには余暇を得て、別のところで余暇を減らし、仕事を増やす。もし余暇と仕事の価値が時間を通して一定なら、チケットの販売時まさにそのときに残業することと、どこかで残業してチケットで並ぶときには休むことと、同じ価値になるはず。
もし政府が親による子のネグレクトを規制していいなら、国家による生存権の保障への反対は消極的自由に基づく自由主義的なものというより、「見ず知らずの他人に対しては、家族や友人に対してあるような義務はない」という保守主義的なものに見えてしまう。
なので、生存権の保障に反対する 急進的な義務論的リバタリアンのウォルター・ブロックが子供を育てる義務も否定してるのは一貫性がある (養子に出しもしないで飢えさせるのは殺人だからダメといってるのは、微妙に一貫性がない。見ず知らずの他人が飢えているところで助けないことが殺人と思っているわけではないだろうし、義務に背く行為ではないと思ってるはずなのに)。
ロスバード『自由の倫理学』のほうが詳しく書いてある: ネグレクトも、中絶も、生存権の保障のための税を支払わないことも、法によって禁止されるべきではない、と。一貫性がある。
(知らない人のために言っておくと、ミルトン・フリードマンやフリードリヒ・ハイエク、ジェームズ・ブキャナンらはベーシックインカムや負の所得税による所得再分配を認めているので、リバタリアンがみんな政府による社会的セーフティネットに反対してるわけじゃないです。ウォルター・ブロックは急進的な義務論的リバタリアンで、反対してるっぽいけど)
子供は意図的に作ったから義務が生じる、というのはありえるけど (ブロックは強姦のケースを子供の権利の平等性からすべての子供に延長してるけど)(強姦した犯人側に子育ての義務を帰属すればいいのでは)
弓矢を放ったとする。そこでたとえば大声で注意を促すことによって矢を人に当たらないように避けられるなら、その回避手段を取る義務があるだろう。この言い方だと積極的な行為を促す義務だけど、「人を傷つけてはならない」という消極的義務を破らないために必要な行為だから、義務付けることは自然権リバタリアニズムに反するものではない。もしそれとアナロジーできるなら、子供を作っておいてネグレクトするのは、危害の一種とみなせ、禁止可能になるんじゃないでしょうか。
親に子供の医療費を負担する義務はあるか
現在でも罰はないんじゃない?
や、あるっぽい?
児童の心身の正常な発達を妨げるような著しい減食又は長時間の放置
保護者以外の同居人による前二号又は次号に掲げる行為と同様の行為の放置その他の保護者としての監護を著しく怠ること
(1)保護責任者遺棄罪・不保護罪(刑法218条)について
…
③生存に必要な保護をしない
不保護とは、保護責任者が、幼年者等を場所的に離隔しないで幼年者等の生存に必要な保護をしないことをいいます。
例えば食事を与えない、病気に罹患しても病院に連れていかないことなどが挙げられます。
Judith Thomsonのバイオリニスト事例による中絶の権利の擁護 (これはかなり急進的なリバタリアンに近い直観) も、子育ての義務の否定にも使えそう?
(ウォルター・ブロックは中絶の権利は認めてなかった気がする(ややこし))