なぜ言語専門でない哲学者までもが言語や意味論に興味をもつか
別用で書いたものを転載:
言語専門でない哲学者は何が専門かというと、心の哲学、科学哲学(科学の哲学)、数学の哲学、形而上学、認識論(知識の哲学)、論理学の哲学、行為の哲学、哲学的論理学、倫理学、社会哲学などだが、言語哲学はそのどれとも多少は関係する
(そんなことを言ったら、物理学とだって多少は関係あるだろう、という人もありそうだが…)。
理由は以下の様なものだと思う:
理由0. 分析の道具
「存在する」は、本当に述語なのか? 量化子と考えた方がうまくいくだろ、みたいなことを考えるのがある。
ラッセルは「ソクラテス」のような名前は真の固有名詞ではなくソクラテスの持つ性質を記述した定記述(the most important ancient Greek philosopherのような)を短縮したものと考えた。
アンセルムスは神の存在論的論証と言われる論証で、「「存在する」というのはポジティブな性質である」「神はあらゆるポジティブな性質を持つものである(定義)」「(存在するとは仮定せずとも)神は想像可能ではある」「想像上でも性質を持つくらいはできる(想像された馬とかペガサスとかも足は4本だろう)」「ゆえに、さきほど想像した神は「存在する」というポジティブな性質を持つ」「ゆえに神は存在する」
といったが、「存在する」というのが述語/性質でなく量化子なら、この議論は成り立たないわけである。
パラフレーズという手法がある。
何か問題のあるとされる用語(心とか魂とかに関する用語)を含む文(「魂が鼓動している」とか)を、無害な用語(たとえば、物質に関する用語)に書き換えた同義の文(「アドレナリンが出てる」とか?)にして無害化する手法。
その時の道具として、論理と意味論の道具が役立つ。(アドレナリンはあんま論理とか意味論関係ないけど、イデアとかだと論理でイケるかもしれない)
ラッセルが固有名は短縮だと考えたのも、固有名詞は定記述に比べ面倒だとされたため とも言えるかもしれない
たとえば、「ペガソス」「神」のような存在しない物を表す固有名詞が面倒だから。
定義という伝統的手法もパラフレーズの一種と言えるだろう
理由1. 志向性
言語は、命題的な内容(意味)を持つものの典型例だ。
他にも、思考や知識も命題的な内容を持つ。状況次第では、うなずくといった動作も命題的内容を持つだろう。
志向性とは、そういう命題的内容を持つという性質のこと。
"I think that P. " は Iという人間とPという命題の関係を記述したものだろう。
哲学者は人間(とかの行動とか言動とか脳の状態とか)が命題といかにして(意味的な)関係を持つかに興味がある (なぜなら人が知識を得る前提条件の一つでもあるし、心の本質的な性質とされるし、合理的な行動を行う前提条件の1つでもある)。
(いかにして関係を持つかという問題への解答としては、意味するものとされるものとの法則的な相関だという因果意味論、生物学的な機能の概念に訴える目的意味論、言明から言明への推論方法をマスターすることでそれら言明の意味を習得できるという推論主義的プラグマティズム、などが提唱されている)
日本語や英語を学ぶ前(赤ちゃんのとき)から人間の脳内に言語的な構造があるため、日本語や英語が無くても命題的な思考が可能という説があり、The Language of Thought Hypothesis (LOTH) と呼ばれる。
【ofの志向性】志向性のもうひとつの意味として、「何かについてのものである」というのがある。
たとえば、電信柱について語っている音声ノイズは、その音が「電信柱に似ている」とか「電信柱から発信されてる」とかの普通の物理的つながりがなくとも(なにせ、電信柱について語っている人が電信柱を見たことがあるとも限らないのだ)、「電信柱についてのものである」という意味的なつながりがある。
あと、電信柱についての考えている人の脳の状態と電信柱との間のつながりも、普通の物理的関係というより意味的なつながりだろう。(とはいえ意味的なつながりは物理的なつながりで説明されなければ困ることになるが)
命題的志向性に対してこちらの志向性はofの志向性とかaboutnessなどと呼ばれる【要出典】。(knowing that と knowing of の違いのようなもの)
たとえばayu-mushi.iconというアイコン単体があったとき、ofの志向性(アイコンは私を表す)はあっても、命題的志向性(「私はXXである」)は持たないだろう。"AND"という言葉単体がofの志向性を持つのか、私にはわからない
なぜ言語専門でない哲学者までもが言語や意味論に興味をもつか
言語専門でない哲学者は何が専門かというと、心の哲学、科学哲学(科学の哲学)、数学の哲学、形而上学、認識論(知識の哲学)、論理学の哲学、行為の哲学、哲学的論理学、倫理学、社会哲学などだが、言語哲学はそのどれとも多少は関係する
(そんなことを言ったら、物理学とだって多少は関係あるだろう、という人もありそうだが…)。
理由は以下の様なものだと思う:
理由0. 分析の道具
「存在する」は、本当に述語なのか? 量化子と考えた方がうまくいくだろ、みたいなことを考えるのがある。
ラッセルは「ソクラテス」のような名前は真の固有名詞ではなくソクラテスの持つ性質を記述した定記述(the most important ancient Greek philosopherのような)を短縮したものと考えた。
アンセルムスは神の存在論的論証と言われる論証で、「「存在する」というのはポジティブな性質である」「神はあらゆるポジティブな性質を持つものである(定義)」「(存在するとは仮定せずとも)神は想像可能ではある」「想像上でも性質を持つくらいはできる(想像された馬とかペガサスとかも足は4本だろう)」「ゆえに、さきほど想像した神は「存在する」というポジティブな性質を持つ」「ゆえに神は存在する」
といったが、「存在する」というのが述語/性質でなく量化子なら、この議論は成り立たないわけである。
パラフレーズという手法がある。
何か問題のあるとされる用語(心とか魂とかに関する用語)を含む文(「魂が鼓動している」とか)を、無害な用語(たとえば、物質に関する用語)に書き換えた同義の文(「アドレナリンが出てる」とか?)にして無害化する手法。
その時の道具として、論理と意味論の道具が役立つ。(アドレナリンはあんま論理とか意味論関係ないけど、イデアとかだと論理でイケるかもしれない)
ラッセルが固有名は短縮だと考えたのも、固有名詞は定記述に比べ面倒だとされたため とも言えるかもしれない
たとえば、「ペガソス」「神」のような存在しない物を表す固有名詞が面倒だから。
定義という伝統的手法もパラフレーズの一種と言えるだろう
理由1. 志向性
言語は、命題的な内容(意味)を持つものの典型例だ。
他にも、思考や知識も命題的な内容を持つ。状況次第では、うなずくといった動作も命題的内容を持つだろう。
志向性とは、そういう命題的内容を持つという性質のこと。
"I think that P. " は Iという人間とPという命題の関係を記述したものだろう。
哲学者は人間(とかの行動とか言動とか脳の状態とか)が命題といかにして(意味的な)関係を持つかに興味がある (なぜなら人が知識を得る前提条件の一つでもあるし、心の本質的な性質とされるし、合理的な行動を行う前提条件の1つでもある)。
(いかにして関係を持つかという問題への解答としては、意味するものとされるものとの法則的な相関だという因果意味論、生物学的な機能の概念に訴える目的意味論、言明から言明への推論方法をマスターすることでそれら言明の意味を習得できるという推論主義的プラグマティズム、などが提唱されている)
日本語や英語を学ぶ前(赤ちゃんのとき)から人間の脳内に言語的な構造があるため、日本語や英語が無くても命題的な思考が可能という説があり、The Language of Thought Hypothesis (LOTH) と呼ばれる。
【ofの志向性】志向性のもうひとつの意味として、「何かについてのものである」というのがある。
たとえば、電信柱について語っている音声ノイズは、その音が「電信柱に似ている」とか「電信柱から発信されてる」とかの普通の物理的つながりがなくとも(なにせ、電信柱について語っている人が電信柱を見たことがあるとも限らないのだ)、「電信柱についてのものである」という意味的なつながりがある。
あと、電信柱についての考えている人の脳の状態と電信柱との間のつながりも、普通の物理的関係というより意味的なつながりだろう。(とはいえ意味的なつながりは物理的なつながりで説明されなければ困ることになるが)
命題的志向性に対してこちらの志向性はofの志向性とかaboutnessなどと呼ばれる【要出典】。(knowing that と knowing of の違いのようなもの)
たとえばayu-mushi.iconというアイコン単体があったとき、ofの志向性(アイコンは私を表す)はあっても、命題的志向性(「私はXXである」)は持たないだろう。"AND"という言葉単体がofの志向性を持つのか、私にはわからない
命題的志向性もofの志向性も意味的なつながりのことではある。
ここまで命題が何かについて説明しなかったが、世界のあり方によって真とか偽だったりするものととりあえず考えてください。たとえば「雪は白い」「昨日、地震があった」は命題です。
世界のあり方によって真だったり偽だったりするので、命題は可能な世界から真偽値への関数とも考えられます。
「「雪は白い」とAさんが思ったのではないかとBさんが思ったのではないかとCさんが空想した。」みたいにいくらでも長くできるという性質がある(再帰性)。
志向性については以下の講義を参照するといいでしょう:
理由2.様相
「独身者は結婚していない」「もしaさんが弁護士ならばaさんは法律を専門とする」といった命題は、「雪は白い」とか「相対性理論は正しい」とか「昨日、地震があった」といった、単に真な命題と比べて、必然的に真だとか、そうでないことは有り得ない(不可能だ)といった印象がないだろうか?
様相とは、必然的/可能/偶然/不可能 のようなことをいう
また、このような知識(「独身者は結婚していない」…)を得るために何ら実験や観察は必要ではなく、独身者とか弁護士を見たことある必要すらないだろう。
単に独身とか弁護士といった日本語を知っているだけで真とわかる。
さらに、独身者とか弁護士とかが現実に存在しなくてもこれは成り立つ。独身者のありかたが現実とは全然違った(既婚者と違って腕が五本あるとか)としても、実は結婚しているということだけはない。不可能だ。
「独身者は結婚していない」「もしaさんが弁護士ならばaさんは法律を専門とする」といった文は、実際の世界のありかたではなく、「(定義や規約や)言葉の意味によって真になっており、言葉の意味によって真だと分かる」と考えられた。
ところで、経験論の哲学者は、数学や論理学といった、経験により信憑性を与えられたのではないと思われる知識を自分たちの理論の中で位置づけたかった。
これら数学や論理学などの経験によらない知識をアプリオリな知識という。
「独身者は結婚していない」も、アプリオリである。
そこで、数学的な命題(1+1=2とか)や論理学的命題(三段論法とか)や哲学的・形而上学的命題(「物質は延長を持つ」とか「夏目漱石が小説家でなかったこともありえた」とか「aがbを引き起こし、bがcを引き起こしたならば、aがcを引き起こしてもいる」とか)の必然性も(アプリオリ性も)、「言葉の意味によって真」に包括して説明できないか、というプロジェクトが、20世紀の哲学で流行った。
必然的である/アプリオリであるとは言葉の意味によって真であることで、可能であるとは言葉の意味からは必ずしも真と言えるわけではないということ、みたいな説明である。
まあいまでも、論理学(三段論法とか)は言語によって説明できると考える人が多い。
詳しくは飯田隆『言語哲学大全』の2巻, 3巻にある。
様相と志向性はどちらも内包的である。
内包的な文脈とは、指示対象が同じフレーズで置き換えたのに真偽が変わる場合がある文脈のこと。
たとえば、"Ancient Greek philosophers think Morningstar is red." と"Ancient Greek philosophers think Evenningstar is red."は、MorningstarもEvenningstarもどっちも金星なので同じ指示だが、昔の人はそれらが同じだと知らなかったので、これらの文の真偽が同じとは限らない。
だから "Someone thinks XX"は内包的な文脈だ。
また、「必然的に、腎臓を持つ動物は心臓も持つ動物だ」というのは、現に腎臓を持つ動物と心臓を持つ動物は同じだが、必然的という文脈が加わることで真ではない(心臓を持つが腎臓を持たない生物が進化したことも可能だろうから、偽である)。
一方で、実際同じものを置き換えた「必然的に、腎臓を持つ動物は腎臓を持つ動物だ」というのは必然的に真である。
だから "必然的に、XX" も内包的な文脈である。
理由3. 存在論
存在論とは、対象、個体、性質、命題、事実、出来事、本質、実体といった、カテゴリーについての哲学だ。
フレーゲは、数詞は固有名であるということから、数は対象であるという結論を導いた。
述語と性質が対応し、固有名詞と個体が対応するとか、文法的カテゴリーと存在論的カテゴリーの対応について、古くから指摘されてきた。
現代では範疇文法などがそれらの関係を明確にできるかもしれない
理由4. 語用論との絡みで
【指標性】「私はayu-mushiである」といった命題は、必然的に真なのか?
ある意味ではそうである……私がayu-mushiである以上、この文はayu-mushiはayu-mushiであるという以上のことをいっていないし、偽になることは不可能で、ゆえに必然的である。
現実世界のありかたがどうあろうとも、世界が滅びようとも、この文は成り立つ。
しかし、ある意味では必然ではない。この文が成り立たない状況は容易に想像可能だ(私以外の人が同じ文を言えばいいだけだ)。
それに、必然ではあっても、この文は「ayu-mushiはayu-mushiである」のような自明なことを言っているのではなく、情報量のあることを言っているように見える(認識価値)。
そして、アプリオリではない(私が記憶喪失になったならば、私自身がayu-mushiだと知るためにはインターネットのアカウントにログインしなければわからない)。
指標性は、様相に似ているけどちょっと違う
「私」と「ayu-mushi」の意味は、「世界のありかたによって指すものを決めるもの」としての「意味」はどちらも同じ(世界がどうあろうと同じ物(ayu-mushiという人間)を指す)だが、
「情報量」や「認識価値」という点での「意味」は、異なる。
このような、「言語の意味」が持つ2つの側面を扱うため、二次元意味論というのが、発明された。
【道徳的言説】道徳的表出主義は、道徳的言説は主張としての意味内容は持たず、暗黙に命令文とか感嘆文みたいなのと同じような機能が実行されるものと考える。
このように、哲学者は当該の言説が どのような意味をもつか だけでなく どのように無意味か にも関心を持つ
また、言語はその意味内容に尽きない機能を持っているということでもある(それが、語用論の研究対象の1つになる)。
【因果関係】因果関係とか法則性は説明 ( や予測 ) という言語行為と本質的な関係があるかもしれない
cf. Amie Thomasson "Non-Descriptivism About Modality. A Brief History And Revival"
理由5. 言語の規範性・社会性・慣習性
クリプキ・ウィトゲンシュタインのパラドックス
"ミリカンLBM私訳-1-0 1.単純化した言語慣習 Language Conventions Made Simple"
David Lewis Convention
言語(による制定)から他の社会的ステータス(ゲームの駒の動きとか貨幣価値とか)が派生すると主張
「リウマチ」「ニュートリノ」「ニレ」「ブナ」などの意味は、素人が使う場合には、(たとえば素人にはニレとブナの違いがわからないとしよう)意味が固定できない。
素人だけでやり取りしている場合(専門家が存在しない場合)、「ニレ」と言ってブナを指していない保障がないため、意味が容易に曖昧になってしまう。が、専門家が木と名前を対応付けているので素人が使っても(「これはブナですか?」)固定した1つの種を指すことができる。
これを言語の社会的分業と呼ぶ(by ヒラリー・パトナム)。
他の例としては、いくら視聴者が容疑者の意味を犯罪者だと誤解していようと、警察や報道側の用法が変わらない限り意味の変化は生じない。
理由6. 外部化された計算装置
拡張された心
言語によってメタ的思考・反省的思考が可能になるという説がある。
チンパンジーに記号を教えると、それまでは物同士の色が同じ(●●や○○)かが分かるだけだったのが、物のペアの色同士が同じかどうかが同じ(○○ <-> ●● や, ●○ <-> ○● みたいな)かも分かるようになるらしい。
つまり物の同色性から、命題の同値性にすすんだ
ヒース『ルールに従う』より
また、心の理論(人間が持つ、他者の行動や心を理解する能力)が先か言語が先か、という話もあった気がする
(ところで言語習得により記憶力は上がるだろうか? 日付や曜日があることで時系列を整理して覚えやすいとかありそうだけど)
理由7. 意図的行為・合理的行為: 記述のもとの行為
意図的行為はある記述のもとで意図的である
意図的にスイッチを押す と 意図的に電気を点ける