Murray Rothbard *For a New Liberty*
最初の数章しかよんでない
(ヤーヴィンがロスバードを勧めていたのでちょっと読んだ)
功利主義と社会ダーウィニズム的な漸進主義を受け入れたことで、自由市場の支持者はかつての急進的な性格を失って、その論敵によく言われるように現状維持的になってしまった、という不満を述べている
(ベンサムとJ.S.ミルは選挙法改正運動に参加していたしEnglish Radical と呼ばれていた気がするが彼らは急進的ではなかったか)
リバタリアンが自由市場の支持者のうちのわずかな部分だとすればそもそもべつに矛盾することではないか
(そして義務論的・急進的・理想主義的な印象の部分というのはロスバードの影響から来ていてもおかしくない)
スティーブン・ジェイ・グールドの断続平衝説に「現代の進化理論」として好意的に言及している (p.21)
(社会ダーウィニズムは漸進的進歩みたいなことを言うが、実際には皮肉にも生物の進化は断続的だ、と言っている)
ayu-mushi.icon経済的自由がなければ、個人的自由も実質的には意味を持たないというとき、そこでの個人的自由の概念は積極的自由のような概念になっていないか (追記: コーエン『自己所有権、自由、平等』(Google Booksで最初だけ読んだ)は、もし自然物がすべて共同所有になったら、みんなの許可なしには何もできなくなるから実質的には自由でない、というリバタリアンの意見は正しいが、そこでそういう自己の身体の自己所有権にとどまらない自由の概念を持ち出すなら、その概念においては所有物が少ない貧しい人もその意味における自由が少ないということも認めるべき、みたいに論じていた)
Gordon Tullock has argued Hayek's analysis incorrectly predicted governments in much of Europe in the late 20th century would descend into totalitarianism. He uses Sweden, in which the government at that time-controlled 63 percent of GNP, as an example to support his argument that the basic problem with The Road to Serfdom is "that it offered predictions which turned out to be false. The steady advance of government in places such as Sweden has not led to any loss of non-economic freedoms." While criticizing Hayek, Tullock still praises the classical liberal notion of economic freedom, saying, "Arguments for political freedom are strong, as are the arguments for economic freedom. We needn’t make one set of arguments depend on the other."
スウェーデンには経済的自由はないけど政治的自由があり、シンガポールには経済的自由はあるけど政治的自由はない?
In Capitalism and Freedom (1962), Friedman further developed Friedrich Hayek's argument that economic freedom, while itself an extremely important component of total freedom, is also a necessary condition for political freedom. He commented that centralized control of economic activities was always accompanied with political repression. In his view, voluntary character of all transactions in a free market economy and wide diversity that it permits are fundamental threats to repressive political leaders and greatly diminish power to coerce. Through elimination of centralized control of economic activities, economic power is separated from political power, and the one can serve as counterbalance to the other. Friedman feels that competitive capitalism is especially important to minority groups, since impersonal market forces protect people from discrimination in their economic activities for reasons unrelated to their productivity.25 John Miller further observes that Hong Kong and Singapore, both only "partially free" according to Freedom House, are leading countries on both economic freedom indices and casts doubt on the claim that measured economic freedom is associated with political freedom.37 However, according to the Freedom House, "there is a high and statistically significant correlation between the level of political freedom as measured by Freedom House and economic freedom as measured by the Wall Street Journal/Heritage Foundation survey."41 経済的自由を妨げれば必然的に他の諸自由も妨げることになるという議論は「結合論証」と呼ばれ、…
mother of all other liberties
ayu-mushi.icon「自己所有権」として市民的自由も外的な物の所有権と同種のもの (自己の身体の所有) とみなすことは、外的な物の所有権と市民的自由を結びつけて考えるリバタリアンの考えを押し出すレトリック (?) なのかな
同種のものとみなすのみならず、ダメ押しで自己の身体の所有権から物の所有権も導かれるかのように言って、物の所有権と市民的自由の結びつきを主張してる
ここでは因果的な結びつきではなく、概念的な結びつき
1) 経済的自由を妨げると市民的自由も妨げられる(因果的つながり)
2) 経済的自由と市民的自由は同種のものである(概念的つながり)
3) 経済的自由 (外的なものの所有権) は市民的自由 (自己の身体の所有) から派生する (概念的つながり?)
そう考えると、自己の身体の所有権は受け入れるけど外的な物の所有権の制限は認めるような左派リバタリアンは変なことをしている?
外的な物の所有権 (いわゆる所有権) と市民的自由を結びつけるために導入した自己所有権という語彙を使いながら、外的なものの所有権と自己所有権をふたたび切り離す、ということをしてる
物の所有権と共通のものという含みがないなら、市民的自由を自己所有権として扱わなくてもいいのでは
いや、どうだろう
思いつく「自由権だけど自己所有権から導けない例」はプライバシー権くらいだった(ほんとに自由権に含まれるのかしらないけど)
"Your Liberty To Swing Your Fist Ends Just Where My Nose Begins"という自己所有権から言論の自由を導出できるかは、そこまで明らかではないかもしれない (声帯は話者のものだけれども、my earsはどうなの? となるので、決着をつけるにはもっと別の仮定を入れる必要があるかも)
危害原理はそれだけだと何が危害なのかあんまり明らかじゃない (寝ている間にこっそり他人のものを盗んで気づかれなかった場合は危害なのか? 愛の告白を断ることは?) ので、自己所有権概念は何が危害なのかということの一つの具体化になってるという意味ではいいかなという気がする
ayu-mushi.icon労働所有論、効率性の観点からするとダメでは (ロスバードからすれば効率性なんてどうでもいいと言われるかもしれないけれど)
無主物を取得するためだけに無駄な労働が起こる可能性があるのでは?
無主物の所有権をランダムに人々に割り当てるとかのほうが効率性の観点からすると望ましいのでは?
貴族とかが労働せずに利益を得てずるいみたいな感情から労働所有論が出たのかもしれないけど、そもそも所有ってのはそういうもので、所有権を認めるのに労働せずに利益を得ることを認めないのはむずかしいのでは
そういう感じの理由以外に、国家が領土を所有することで政治権力が正当化されるという帰結を避けたいというのもあるだろうけど
無主物を取得するときに労働で得るというのと、その他の文脈で労働により対価を得るというのが何かしらアナロジーして見えるんだろうけど、実際のところそれって共通してないんじゃない?
フリーライダー検知のための道徳感情が作動しているんじゃないかという気がするけど、実際に労働を混ぜて無主物を取得するようにしたからといって他の所有権ルール (ランダムに割り当てるとか) に比べてフリーライダーが減るわけではないと思う (つまりここでフリーライダー検知の道徳感情が誤作動してるのでは)
では著作権もランダムに割り当てればいい? なんか違う気がする
排除可能性がありさえすればいいなら、なぜランダムに割り当てるのではいけないのか
発明の知的財産権が会社に帰属する話があったような気がする。知的財産権が財の排除可能性を生むことだけが重要だとすると、別にそれでもいいということになるのかな。
論文ジャーナルに著作権が帰属するのとかもそれでは
それはそう合意しただけでは
人間の自然本性に基づく自然法、自然権
人間が自由な選択を本性とするから自由権が認められるべき
→ayu-mushi.icon 「である」から「べき」を導こうとしている気がする
ayu-mushi.iconやっぱりカーティス・ヤーヴィンの元ネタになってるんだなと思った
p. 72 政治家、官僚もフランツ・オッペンハイマーが言うように収入を追求している。平和的、生産的な「経済的手段」で行うか、強制的、収奪的な「政治的手段」によって行うかの違いに過ぎない。
政府アクターも利己的と見ることが大事みたいな
何かしら国家の正統性を承認するためにイデオロギーが必要とされているみたいな話
自発的隷従論?
昔は宗教が国家の支配を正当化していたが、現代では知識人が科学という形で国家の正統性を与えている
"court intellectuals"、御用学者?
「科学的専門家」、計画者、経済学者、national security manager による支配
ayu-mushi.iconヤーヴィンのフォーマリズム宣言で、「何が暴力とみなされるかを決めるために所有権が必要」とあったが、For a New Liberty でも危害原理に実質を与えるものとして所有権が導入されている
ayu-mushi.iconロスバードは国家に先立って所有権を決めるルールがないと、国家が誰かにニューヨーク州全体の土地を所有権を認めてしてしまえばその人が課税しても地代と言い張れるぞという話をしている。(p. 36) この帰謬法に対し、銃弾を噛んだのが、フォーマリズム(「新反動主義」Part. 3 フォーマリズム)だろう。 だから国家に先立った所有権を決めるルールが必要ということなのだけれども
ayu-mushi.icon現状の所有者から譲渡の系列をたどって最初に正当な無主物取得を行った人にたどり着くということが現に概ね成り立っているのでなければ自然権的リバタリアニズムは事実上成立しなそう。
新しい無主物取得のルールが仮に倫理的に正しかったとしても、世界の多くの資源は概ね取得が行われてしまった後なのでどうしようもない
そのような場合正当な取得者に返還を行うべきということになるかもしれないが、正当な所有者が誰だったかという認定のためには政府を使うしかなさそうであり、小さな政府と整合しなくなる (厳密には自然権論としてのリバタリアニズムが必ずしも小さな政府を導くわけではないということかもしれない)
なので仮に政府が所有権の distribution をかき混ぜまくって全員が盗人という状態にされるとどうしようもなくなりそう
物の持つ値段がほとんど原材料ではなく付加価値によっていたとすると、ずっと昔に原材料が正当でない仕方で移転していたとしても、大部分の付加価値を加えた人の多くに正当な譲渡系列にたどっていける限りで問題がない、みたいな応答ができる?
他人の動産に工作が加えられた場合(加工)には、その加工物の所有権は原則として材料の所有者に帰属する(民法第246条1項本文)。ただし、工作の結果によって生じた価格が材料の価格を著しく超えて高価になった場合は、加工者がその加工物の所有権を取得する(民法第246条1項但書)。
この理論だとバンクシーはおよそあらゆるものを奪う能力がある可能性
動産だけど
何らかの個人にとって重要だが値段が低いものに対し加工して値段を上げると奪えるという帰結があるのでは
「政府」の起源をcoordinate(外部性への対処など)に置く仮説とエリートによる搾取に置く仮説について、
ティグリス=ユーフラテス川の流路変更という「自然実験」を通して検証。
マレー・ロスバード、フランツ・オッペンハイマー、マンサー・オルソン (中国の軍閥を国家形成のモデルと考えた) が支持する (と思う) 国家の起源にかんする征服理論が、自然実験で経験的にテストされていた