選択肢が増えることは常にいいこと? 2者間の場合
私に経済学の知識はない (しかしこれは経済学の話) (わたしが書く必要が一切ない記事ですね)
ちゃんと図とか かいて考えてないので間違ってる可能性大
ある人の選択肢が増えることは、常にその当人にとって良いことか?
ここでの「良い」は結果としての良さではなく、その期待値 (確率論の意味での期待値。「期待」のビジネスパーソン的言い方ではない) の意味で解釈した方がいい。
というのも、もしリスクのある選択肢が増えたとして、負ける可能性がある以上、結果論的に見れば「あの選択肢がなければ現在は得していただろうに」と振り返って思う場合もあるだろうから。
「あの選択肢がなくて、かつ現実にそう判明したのと同じように世界がなっていたとしたら、現在そうであるよりも得だっただろう」
たとえば明日雨になるというときにお金がもらえ、晴れならお金を払うということに同意したとする。そして明日になって晴れだと分かったときには、もしそのような取引がそもそも制限していたら損しなかっただろうに、と思うことになる
これは時間経過によって信念/確率分布が変化してるから、というふうにも説明できる
ここでの期待値は、行為者の主観的な確率分布に照らしたときのその人にとっての良さの期待値 (期待効用)
もちろん、誤った信念 (ナイフで自分自身を刺しても怪我することはないとか) を持っている人に選択肢 (ナイフで自分自身を刺す) を与えることで期待値的に本人にとって悪くなるということが、他人の確率分布に照らしたときに成立することはある。が、行為者自身の主観的確率分布に照らせば、選択肢が増えることは期待効用を上げる。
この議論から言えることは、悪くならないということであって、良くなるとまでは言ってない
常に期待効用が最も高い選択肢を選ぶ合理的主体にとっては、選択肢が増えることで期待効用が下がることはない
「選択肢集合A, A'について A'がAの部分集合ならば、A'の選択肢集合を持つことがAの選択肢集合を持つことより悪くなることはない」
opportunity set?
「Xをする選択肢」というのは消極的自由 (Xをすることを他人から邪魔されない) で考えてもいいし、Xを実現するために必要な資源・他人からの助け・能力などを含むものと考えてもいい
どちらで考えるにしても、ある人がなにかすることを他人が禁止することでその人自身の選択肢が増えるということは考えにくい
ある選択をすることで他の選択が できなくなる と捉える場合、そういうことは考えられるかも
それは自由意志の話になりそう
なんか選択肢という概念は他行為可能性みたいなので、自由意志っぽい?
邪魔がない、助けがある、などのことや、別の思考・選好を持っていた場合の反事実的な状況ではそれが行われていたとする、などと定義すれば、決定論と矛盾するとは思わないけど
1者の場合の危害原理「他者の利害以外の理由で本人の選択に干渉してはならない」
2者に拡張「それ以外の人の利害以外の理由で、2人の同意による選択に干渉してはならない」
だけどここではそれに反する例があるかを考えてみたい。
先行研究
読んでない
シーナ・アイエンガー
Jon Elster Ulysses Unboundは、自分で選択肢を制限することに利益があるのはどういうときかという話らしい
この記事でわたしは、2者間における取引の自由に特有に生じる場合があるかを考えてみる。
コーディネーション問題では選択肢が少ないことで得をしうる?
そうでもない気がする。これはAさんが選択肢が少ないことで得しているわけではなく、AさんがBさんに選択肢が少ないと思われていることによって得しているのでは?
囚人のジレンマ
これはそれぞれが相手の選択肢をなくすことで得しているだけなので、自分の選択肢をなくすことでその当人が得するという事例ではない気がする
断るときに体のいい理由があると嬉しいなど。「予定がある」というのが体のいい理由であるのと同様、「違法だ」や、「できない」というのは体のいい理由になる
これも相手が違法だと思っていれば実際は違法でなくても成立するか
2人組を作ってね〜 のときに、上から決められていたほうがいい気がするのはなぜか
これは2人ではないけれど
これも他人の選択肢が制限されることで自分ayu-mushi.iconにとっていいというだけの例で、たとえば自分だけが好きな人と組める権利があるなら自分にとっては改善なんじゃないかな (話し合って決めるめんどくささなどを無視すれば)
みなさんは freedom of association に耐えられるか
選択肢をなくすことでコミットメントを行えるような場合はありそう
理論
行われた取引は、何も行われなかったよりは2人にとって常にwin-winになる。win-winでないならそもそも取引しないから(誤った信念を持っている場合、不合理な場合を除く)
(もちろん、これはその2人以外にとって不利益になる可能性を排除しない 外部効果の場合)
win-winな取引の可能性がなくなるまで取引が続くと仮定すれば、パレート効率までたどりつくと考えられる?
独占が生じている場合にパレート効率にならないのは、価格差別ができないという前提があるからで、本当に「2者間の取引は取引をしないよりは常にwin-win、選択肢がなくなるまで取引が続くと仮定すればパレート効率になる」という法則の反例になってるわけではたぶんない?
しかし、第一種価格差別をする独占企業にも当てはまる議論ということは、実はかなり頼りない話という感じ。
↑上の議論は取引を完全に禁止することへの反論にはなるけれども、取引のある特定の仕方の細かな制限への反論にはならない。あるwin-winな選択肢を制限したことにより、別のwin-winな取引が提案され、それは一方にとっては前の交渉条件より得ということはありえる。
「外部からの強制がない場合にパレート効率になる」ということが言えるからと言って、「外部からの強制があるとパレート効率でなくなる」ということが言えるわけではない。ここは、外部から強制 (プライスコントロールとか)すると総余剰が減る競争市場の場合と、固定した2者間の交渉の場合とで違いそう。
第三者の介入が交渉結果を平等にする状況は考えられるけど、逆により不平等にする場合も考えられる。一般に、第三者の介入を認めるということによって交渉結果が平等になる可能性が高いのか? 五分五分なのか? 単にその第三者が交渉主体よりも善意であるということに依存しているのか?
交渉主体は「道徳」と「交渉結果を自分に有利にすること」という2つの要因で決定するのに対し、第三者は道徳だけで見る (のか?) ため、仮に道徳性が同じくらいだったとしても第三者が介入したほうがより平等になる可能性が高い、みたいな議論ができるかも?
道徳の内容に依存するのでは
利害関係にない第三者の視点を導入することで公平になる?
規制が両方にとって得、ということはないだろうけれど
規制することで取引がそもそも生じなくなってしまう、という状況を警戒する理由にしかならない (規制によってそもそも取引がなくなってしまうのか、新たに別の条件で取引が生じるのか、を外部から予想することは難しい?)
A standard pro-business argument: businesses can either make your life better (by providing deals you like) or keep your life the same (by providing deals you don’t like, which you don’t take). They can’t really make your life worse. There are some exceptions, like if they outcompete and destroy another business you liked better, or if they have some kind of externalities, or if they lobby the government to do something bad. But in general, if you’re angry at a business, you need to explain how one of these unusual conditions applies. Otherwise they’re just “helping you less than you wish they did”, not hurting you.
でも、功利主義的観点からすれば、"helping you less than you wish they did"と"hurting you"の違いはそこまで明らかじゃないです (義務とスーパーエロゲーションの境界問題なため)
義務論だとしてもどういう義務があるのかを考えないと"helping you less than you wish they did"と"hurting you"の違いは明らかにならない (ネグレクトは加害か?)
(加害 = "義務違反がなかった場合の可能世界での被害者の効用より、現実世界での被害者の効用が低いこと"という捉え方)
「リカードの比較優位と分業の利益のように、人々の間に能力や立場の高低などの差異があっても、自由な取引を通じて相互に利益を得ることができる。(あるいは、まさに差異があるからこそ取引から利益を得ることができる(The Point of Trade — LessWrong) )。だから『関係 / 立場が対等でない』『交渉能力の差異』を根拠に強制的な干渉をするのは間違ってる」 ツッコミ: 能力の高低と交渉能力の差異では話が違うのでは
完全競争市場では条件が気に入らなければ他の取引相手が見つかるとしている。それゆえ完全競争市場では そもそも交渉なるものをしない ので交渉能力の差異に基づく問題は発生し得ない。交渉が問題になるのは、(買い手/売り手/双方) 独占の場合。
一方だけの独占の場合も交渉しないんじゃない?
リカードの話は独占市場でも成り立つの?
リカードの話ではお互いが特化したりしなかったりできるという状況を考えているわけで、もし特化してしまうと独占されて損するという状況なら特化せずに自足すればいいので独占の問題につながる状況ではないのでは
https://www.youtube.com/watch?v=4rUfoU04QJM
2人のみの場合だとバナナと魚の交換レートが競争で決まるわけではないからなんか圧とかで自分の有利にすることが考えられるのでは (相手がそんなんだったら自給自足するよ、とならない程度までだけど)
Annのほうが交渉力が優位ならバナナ:魚 交換レートを0.9999999999:1 に持ち込めて、Bobのほうが優位なら交換レートは1:2.9999999に持ち込める? (自給自足よりマシなギリギリまで行くと仮定すると)
そういう極端な交換レートを外部から規制したとして、一方の状況が良くなることは考えられる
能力が高いほうが交渉力も高いなら前者の条件になると予想される? けど、交渉力と能力が別で後者の条件になることもあるのかも
ナッシュ交渉ゲームで交渉能力の差異を分析できる?
例: 監護者性交等罪
あるいは、交渉はゲーム理論的というよりもっと社会規範的なものを考える必要があるのかも
契約の自由
「契約の自由は、契約を行う双方が持つ権利だ。最低賃金法や労働基準法は労働者と雇用者が契約する選択肢を奪っているのだから、双方の権利の制限と考えられる。最低賃金法や労働基準法は、労働者の権利を増やしているのではなく、制限している。」
とある貴族がいた。貴族はめっちゃ偉かったので、どんな契約をしても罰則なく破ることができるのは明らかであった。この貴族の契約の自由がないという、悪い属性を備えているのか?
契約の自由というのは将来における自分の選択肢を制限するという特殊な種類の選択肢だからなあ
契約の自由は、自由と名前がついているけれど「約束を守る、守らないと (どちらかを/どちらも) 罰する」という意味
契約の自由があると囚人のジレンマは解決できる。選択肢があると囚人のジレンマになるのでないほうがいい場合があるというさっきの話は、お互いの選択肢を消すという契約の自由があると解消する
なので、やっぱり契約の自由は 自由の中でイレギュラーな存在なのでは
この権利論的な議論は、最低賃金法があることで失業が生じるみたいな経験的事実の話とは異なることに注意
この権利論的な議論を念頭に置く人は、最低賃金法で両者が損するという考えを受け入れやすくなるかもしれないけれど
というか、これと「選択肢が増えれば常にいいに違いない」を組み合わせると、最低賃金法で得することはないという考えが導かれる
最低賃金法で失業が生じるのは完全競争市場モデルでの話だけど、この権利論的な議論は市場が完全競争市場か買い手独占かなどということには関係しない
(もしかしたらこういうふうに捉えない仕方もあるかもしれない。2者間の契約の自由を、おのおのが持つ権利の行使として捉えない仕方。あたかも、2人だけからなる全会一致の議会があって、最低賃金法はそこで提案される議案を制限していると考えるような捉え方。)
Labor Freedom: The right likes it, the left hates it and would dispute the “freedom” bit (do you enjoy your freedom to be fired?)
解雇のしやすさを契約で定めることのできる自由
取引を断る権利は、双方の権利ではなく一方の権利だよね。双方の権利に入るものと一方の権利に入るものは、どこに境界があるの?
その値段で合意しなくても交渉が決裂しないと分かっている状態で単に自分で長い労働時間でも選べるというなら純粋に労働者の権利と言えるのでは
でも、別に契約になくて拘束力がないだけで、働きたいときは長く働く事自体はできるということは考えられるので、長い労働時間を契約条件として選ぶ理由はそれを対価として相手から何かを引き出すことができる場合があるという以外の理由はない気がする
契約違反の罰則が相手側だけにあるなら、やっぱりそのような契約の自由にはそもそも契約できない可能性をなくせるという利益があるという以上のことではないのでは
それ以外でセルフコミットメントなどで自分の選択肢を制限したい場合なども一応考えられるかも(現実性はともかく)
…では、労働者の契約の自由を奪うことで、労働者の状況が改善することはあるのか?
最低賃金法で労働者の状況が改善することがある。最低賃金法により失業が発生するか否かに関わらず、失業しなかった労働者にとっては得だ (参照: 余剰分析)。でもなぜ人の選択肢を奪ってその人自身の状況が改善したのだろう?
失業が発生する場合の方については、その賃金以下では雇用されない人ーーつまり最低賃金法で失業した人ーーから機会をうばうことによって、失業しなかった労働者が得をしたんだ、というのが思いつくかもしれない。自分が選択肢を奪われることによって得をしている人がいるわけではなく、自分以外の人から選択肢をうばうことによって得している人がいるだけという説明。
しかし、どうもそうではないっぽい。なぜかというと、買い手独占モデル (モノプソニー - Wikipedia )では、失業は発生しないけれど、にもかかわらず最低賃金法で労働者の状況が改善する。なぜ? →これはたぶん囚人のジレンマとして説明するのがいいだろう。低い賃金での雇用を受け入れるということは裏切り行動に対応する。
低賃金で雇用するというのは雇用者側の権利だから、それを制限して得するのは被雇用者にとっては自分が選択肢を奪われることによって得をしているというわけではなく、自分以外の人から選択肢をうばうことによって得しているのでは? →しかし、その権利は自分 (被雇用者) の権利でもあるはず、というのがここでの問題。(何がどちらの権利なのかというのは簡単な話ではないけれども)
カルテルが必ずしもカルテル外の新規参入者を排除することによって得するのではなく、カルテル内の人の選択肢をお互いに制限し合うことによって囚人のジレンマを解消し値下げ競争から逃れ得をする、というのと同じ
これは労働組合についても言えるはず
囚人のジレンマの状況で、選択肢をうばうことで利益になるのはよく知られているので、これでうまく説明できそう。
正確には囚人のジレンマで選択肢を奪って得するのは、「他人の選択肢を奪うことで得する人が居るだけで、自分自身の選択肢を奪われることによって得する人がいるというわけではない」の一例だけど。相互にもう一方の人の選択肢を制限することで両方が得する、という感じ。
つまり「労働者に権利があるのがそもそもおかしい。労働基準法は撤廃する! link」ではなく、「労働者に (悪い条件で契約するという) 権利があるのが (それにより囚人のジレンマを引き起こし悪い契約条件に陥るので労働者にとって悪いという意味で)そもそもおかしい。労働基準法を制定する!」という話になる もし労働者の権利保護という概念を無理やり使って労働市場の規制を表したいなら、「他の労働者からの競争圧力に服さないという労働者の権利」とでも言うことになりそう
競争圧力に服することを外部性と見れば、(お互いに) 音漏れを受けない権利みたいに捉えられる?
つまり労働規制は、労働者を雇用者から保護するという効果ではなく、労働者を他の労働者から保護するという効果があるのでは?
この議論が正しいとすれば、(買い手独占モデルにおいて) 労働者の誰か1人が「自分だけには労働基準法が適用されない」状態になった場合、その人自身にとってはつねに得なのだろう
この議論は不合理性を仮定しているわけではない
『自由放任主義の乗り越え方』にはあたかも最低賃金法が労働者の不合理性を仮定しなければ正当化できないパターナリズム的政策みたいに書いてあったけど、間違ってると思う
では双方独占の場合には選択肢を奪って一方の状況が改善するということはないということなのだろうか? 双方独占では買い手と売り手は1人づつしかいないので、複数の買い手間、売り手間の囚人のジレンマは生じない。
後払いという約束したのに払わずに逃げるとか、そういう選択肢を制限することで買い手と売り手の間の囚人のジレンマが解消されることはあるけど
わたしが思うのは、選択肢を持っている事自体は囚人のジレンマとかがない状況では常に得だけれども、自分が選択肢を持っていると相手に知られているということはかならずしも得ではないかもしれない、という点
その情報を自分が完全にコントロールしていて好きなときに相手に開示するかしないかを決められる、という状況であれば得だろうけれども
身代金を渡す能力を持っている、ということ自体は得だけれど、そのことを相手に知られることは得とは限らない
COBOL を書ける事自体は得だけれども、そのことを相手に知られると面倒な仕事を押し付けられるかもしれない
高度な能力を持っているが周囲に能力を隠すアニメ主人公
…というわけで、2者間の場合で新たに発生する、自分の選択肢が増えることで自分自身が損する事例のように見えたものは、実はそういう事例ではないっぽい という感じになった。
恐喝、脅迫の場合はどうでしょうか。これも取引だけど。
ポリガミーの分析とか