科学的実在論と反実在論
〔追記: 自分で考えるより本を読んだほうが良かった(定期)。〕
推論と知覚はどちらも知識を得るための方法だ
伝聞による知識というのは、自分で原理的には得られるような知識を得るための道具に過ぎない、ということは同意されるだろう。
それと似たように、「推論による知識は、知覚で原理的には得られるような知識を得るための道具に過ぎない」というのが反実在論? (道具主義?)〔これは反実在論の経験論的部分についての話〕
伝聞は、いくらベイズ的な意味の証拠としては強くても( P(h|e) >> P(h) が成り立つ )、まっとうな証拠として認められないような文脈がある
単に証拠の強さを問うているわけではない
証拠が循環論法になることを恐れて、根拠を知覚的証拠に限り、理論から得られた推論は「ただの推測」と考えて区別する場合がある
主観確率に基づく信念のとらえかたは、予想なのか観測にもとづくのかが確率の値くらいでしか区別されていない点で、直感的な見方とは違う
なぜ対立する両者が受け入れている共通の前提から出発するとか、単に問題となった理論から得られた推論を前提としないといっただけではダメなのか?
質量を体重計で測るのに比べて、質量保存則で推論するのは、直接的な根拠ではないが、より確実ということはありえる
シミュレーション仮説 ($ h_{sim}) は、知覚によって知られることはあり得ない、純粋に推論によって正当化されている説だ
「この世界内でこの世界同等のものをシミュレーションできる」(e) という証拠について $ P(h_{sim}|e)>P(h_{sim}) なので、観測によって補強される事自体はありえると言える。
無限にある仮説に対する事前確率が無条件事前分布のようなものなのか、それとも一部が尖ったりしていていくつかの候補となる仮説だけを考えればいいという状態なのかによって、ある仮説を検証可能とするか、そうでないと考えるかが変わってきそう
(仮説が無限というのは変な気もするが、データにフィットする曲線は無限にある。その曲線の集合をpartitionしたものが1つの仮説にたいおうするのでは?)
ある説明が後付けであるかそうでないかという観点は意味がないのではないか。どの説明も、論理的には実験前から存在しているし、その意味では無限の説明が人間によって考えられる以前から存在しているのだから。(これは変だが、どう反論するのがいいだろう)
帰納法についての懐疑が「いままで日がのぼったからといっていつも日がのぽるといえるのか」と「いままで日がのぼったからといって明日も日がのぼると言えるのか」の2種類考えられるように、最善の説明への推論への懐疑論にも、「電子を措定すると今までの観測をうまく説明できるからと言って電子が存在すると言っていいのか」と「電子を措定すると今までの観測をうまく説明できるからと言って、電子を措定した理論から得られる未来の新規な観測への予言を信頼していいのか」という2つのバージョンが考えられそう
だから悲観的帰納法のような、究極的なあり方についての懐疑は理論の予測能力に対する懐疑にも延長しないのか?
しかし2つめの「電子の存在を措定すると今までの観測をうまく説明できるからと言って、電子を措定した理論から得られる未来の新規な観測への予言を信頼していいのか」は、帰納法で「観測$ e_1, \dots, e_nは電子の存在を措定するとうまく説明できる観測だ」から「任意の観測は電子を措定するとうまく説明できる観測だ」を導いてしまえばいいから(こんな帰納法が認められるのか知らないが)、帰納についての懐疑に還元できるかもしれない。
(他者の心について行動からの最善の説明への推論を使う場合にも同様に考えられる。他者の心があるか自体を疑う場合と、他者の心についての措定を使用した未来の行動の予測の信頼性について懐疑する場合が考えれる)
科学的実在論論争は、帰納の懐疑に似た、最善の説明への推論への懐疑論になっている?