民主主義の問題点の複数のモデル
民主主義 ((1)の場合は多数決ルールといったほうがいいかもしれない) の問題点の指摘を複数見てると、ごっちゃになるので区別をしてみる。
民主主義に対して、
1. 量の概念が無いのが良くないよね (投票にかかるコストや 投下した労力によって政治的影響力が変わることを無視したモデル)って問題を指摘してる人と、 (多数派の専制)
2. 逆に量の概念がありすぎてよくないよね (労力の投下量によって政治的影響力が変わるというモデル) っていう正反対方向の問題を指摘している人 (Mancur Olson Logic of Collective Action (読んでない))
政策から得る1人あたりの利益/損失が小さいと、政策から影響を受ける人数自体は多くても、1人1人が政治活動を行う閾値に達しないため、影響が無いのと同じになってしまう、という問題
このことは金権政治でのほうがより問題になる というか、このモデルは民主主義にある程度金権政治っぽい要素があると仮定している
がいる
(2)は別に民主主義に限った話でもないけど
強いていうと意思決定が分権的だと concentrated interests の特殊利益団体に左右されやすそう
ネオカメラリズムでも、国内産業の特殊利益団体 (concentrated interests) が株式を買って自分の業界や企業に利益を誘導するということはできてしまいそう。(いくら政府を株式会社にしたからといって、自動的に主権株式会社全体としての利益を追求するようになるわけではなく、個々の株式保有者の持つ特定の利害を追求する可能性はある) それはまずいので、ネオカメラリズムでは国内企業は主権株式会社の株式を買えないようにしたほうが良さそう。
には、多数決だと diffused interest が重視されすぎる (量の観点がない) し、金権政治は concentrated interest が重視されすぎる (量の観点がありすぎる) ので、その中間のもっともバランスが良いものとして quadratic funding / voting が導入されてる
ただし、マンサー・オルソンは concentrated interestの方が組織化しやすくdiffused interestはフリーライダー問題に陥るということを言っているのに対し、Vitalik Buterin は組織化の話はしていない。
もしかしたら quadratic voting でも投票者が組織化することを考えると、concentrated interestを不当に優遇してしまう可能性?
(1)と(2)はどちらも公共選択論でいう外部費用の問題 (採択された意思決定に賛成しなかったか、そもそも関わらなかった人に発生する費用) に包括される
国民がとても損しても、政治家がすごく損するとは限らない。悪い政策で国民が死んでも、政治家は死なない (又吉イエス?)。
これは公害を出す企業が、自分の意思決定の社会的費用を他人に押し付けているのと類比的
ただし、独占でもあるだろうけど (政党間、政治家間の競争もある?)
「独占の場合には供給される数量が減る」 + 「負の外部性があると社会的に最適な水準より多くの量が供給される」という2つの効果は逆の方向に働く (次善の理論) ので、ここでは独占が社会的に良い方に働いている?
正の外部性の場合には当てはまらないか
競争がある場合は、公害を出さないように頑張る企業は公害を気にしない企業に競争で負けるので善意がある企業が多くても1つの利己的な企業によってダメになるけど、政府が持つ外部性の場合は善意があればなんとかなる度合いは上がっている?
政府は意思決定に参加/賛同しなかった人に外部費用をおしつける政策を社会的に最適な水準より過剰に供給し、意思決定に賛同/参加しなかった人に正の外部性を持つ政策を社会的に最適な水準より過少に供給すると予測できる
政府の意思決定について外部費用っていう言い方の由来は、Buchanan & Tullock Calculus of Consentっぽい?
外部費用は全会一致制 (全会一致になるまで頑張って色々な案を出すシステム?) や、理想化された市場における意思決定プロセス以外だと大体あって、そもそも政治でみんなに効果を及ぼすことを決めるということにはだいたい外部費用が伴う
他人のお金で買い物するような状況に近い。そのような状況では、安い商品を買うというインセンティブは少ない。
多数派の専制では、多数派が少数派に費用を負担させている
Buchanan & Tullock の枠組みだと、独裁制はかなり外部費用が大きいとされているはずで、全会一致制が最も少なく、多数決は中間?
政策が経済に及ぼす影響が税収に反映される形で、政府の意思決定が被治者に及ぼす外部費用の一部は内部化されるけど
政治家にピグー税・ピグー補助金を
決定が気に入らない人が別のところへ移住できるなら外部費用は下がる
これは公害の場合でも同じそう
多数決ルールでも、賛成しなかった人にコストを負担させることができる
3. 投票者の信念が正確でないかもしれない (ただ、投票者の信念が正確でなくても誤差がランダムなら集計の奇跡で民主主義が機能するかもしれないので、信念に系統的な偏りがあると機能しないと言ったほうがいい(ブライアン・カプラン))
というのもある
こっちは認識的デモクラシー論に関係する
政治的影響力を得るというより、知識を得るためにコストが必要だとそうなる
多数の狼と、少数の羊がいる民主主義で、「羊を昼食に食べる」という政策から受ける影響力は羊の方が大きいと考えられるので命/ごちそう原理により、羊の特殊利益団体がロビーイング / アクティビズムを活発に行うだろうから、公共選択論的にはその政策は通らないと予測される (?)
concentrated interest が勝つことがいいことという例は当然考えられる
特殊利益の問題は、要は少人数でもその政策の成否を変えるということに対する1人あたりの支払い意思額が大きいと (多人数 × (小さい 一人あたり支払い意思額) の場合と掛け算の値としては同じでも) 影響力が強いってことだから、お金持ちが政治的影響力を持ちすぎるというのも同じような話
当然、お金持ちのほうが支払えるお金の総量が多いから支払い意思額も大きいはず
お金で直接政治に影響を与えられなくて、支払い意思額という値は仮想的に考えるものにすぎず、しかしその額よりももっと効用で考えたほうがその人の関心度合い (お金以外の形でどれだけコストが支払えるか) が測れる、ということも考えられるか
しかし、政治的影響にかける労力というのは、たいていの場合お金で買えるものなのでは (たとえば政治に費やす時間で影響力が変わる場合、人を雇えばそれだけ時間を費やせることになる)
お金持ちは高所得者への減税案の寄与についてフリーライダー問題に陥るとしても、1人あたりの支払い意思額が大きいか小さいかがフリーライダー問題の解決に重要とした場合、貧しい人々の方が よりフリーライダー問題に陥るのでは
相対的に勝てばいい気がする
(そもそも本当にフリーライダー問題の構造なのかはよくわからない…。公共財ゲームだと自分の貢献は即座に集団の利益になるけど、政策が通るために一定の閾値がある場合はそこを超えたときだけ利益になるわけだから、各人が選挙が一票差になる確率をどれくらいに見積もってるかとか を考える必要があるのでは)
まとめると、(2)のモデルにおいて、政策は、
受益者の数が多い、
受益者が政策から得ることになる1人当り利益が大きい、
受益者の持っているお金が多い
受 害 者が少ない
受 害 者が政策から得ることになる1人当り損失が少ない、
受 害 者が持っているお金が少ない
ときに通りやすく、
受害者の数が多い
受害者が政策から受けることになる1人あたり損失が大きい、
受害者が持っているお金が多い、
受 益 者の数が少ない、
受 益 者が政策から得ることになる1人当り利益が少ない、
受 益 者が持っているお金が少ない
ときに通りにくい。もちろん複数満たすほど通りやすいはず。たとえば「多数派に (1人あたりでみたときに) 大きな利益を与える政策」とかは通りやすい。
これは市場でもそうだろう (市場だと1人あたりの支払い意思額が大きい人がいるというのはあまり重要ではなさそう。100円の商品でも沢山の人に売れば儲かるので)
(「関心の強い少数派は組織化しやすい」というと、なんとなく少数のほうが全員での組織化がかんたん (もしくは そのうちの一定割合が貢献することがかんたん) という意味を幻視してしまっていたような気がするけど、少数派でも多数派でも、政策からの受益者の全員が政治的に貢献することはほとんどないだろうし、10人の少数派が3人貢献したとして、100人の多数派から3人貢献すればイーブンになるから 貢献者の割合で考えることに特に意味はなかった。関心の強い多数派だって組織化しやすいし、少数のほうが少数であるがゆえに勝ちやすいことがあるって意味ではなかった)
いや量の問題がありすぎることが問題という話とはちがうけれど
なぜ選挙結果だけ同じにできるのかは不明
カルドアヒックス基準なら結果が同じじゃなくても無駄ということが言えるのでは
選挙結果が同じになるという保証はなくても、そもそも選挙結果でどっちになるかは (個々にとっては重要だけど) 社会全体の観点からはどうでもいいという場合は、この議論は当てはまる
たとえばNIMBY問題のように、どっちかには建てなければならないという点は合意しているけど、自分のところには建ててほしくないとどちらも思っている場合、政治プロセスにより「正しい」方がどちらかを探るより、コインでも振ってでもどっちかに固定したほうが、無駄な政治活動が避けられて双方にとって得かもしれない
これは社会全体からすればどっちが正しいということはない、というか重要ではないような、ゼロサム的な問題だからそうなってる
このモデルは1人が与える選挙結果への影響は少ないから1人がなにかやってもコーディネーションがなければ確率的には大して意味がないということなどを考慮してない
ヤーヴィンは(3)に関係する議論もしている (報道の話)。
特殊利益モデルは、フリーライダー問題におちいる集団とおちいらない集団があるという仮定だけど、ブライアン・カプランのモデルはみんながフリーライドして、誰も適切な知識を身につけることはない
というか、マンサーオルソンのモデルではフリーライドに陥ると政治献金や投票を行わず、影響自体を与えない。一方、ブライアン・カプランのモデルだと、情報収集や思考のコストを支払わないフリーライダーも投票はするので、フリーライダーが政治に影響力を持つ。