文化は実在するか?
文化に説明能力はない? 循環説明?
反証可能性の問題
文化は内生変数?
何でも説明できる
というのを見たあとで文化というのに懐疑的だったけれど、
人種という概念は文化という概念と同じくらい説明力があるのではという話
There were two arguments against race being a real concept: it didn’t cluster nicely, and within-group variation was greater than between group variation. And both of these are equally true of culture. Any mathematical argument considering races as clusters of genes can be used equally well considering cultures as clusters of memes, and will likely return the same results.
Yet I can’t imagine someone saying “culture doesn’t exist” or “culture isn’t real”.
And more important, groups can vary in terms of culture; culture can have explanatory power; cultural stereotypes can be correct. I am pretty sure Westerners really are more rugged, Midwesterners more aw-shucks whitebread types, Southerners more racist.
を見て、人種は恒常的性質クラスターなので説明能力を持つのではないか(普遍者・概念の実在性とまばらさについて)といったのと同様、文化にも恒常的性質クラスターだから説明能力あるみたいに言えばいいのではとなった。 (ミリカンの歴史的種?)
単に「個人の模倣性」のようなものを考えて、方法論的個人主義にミーム要素を入れれば
言語について:
Fools who argue that race doesn't exist because (a) every person has a unique genetic makeup and (b) there aren't always clear boundaries indicating where one race ends and another begins must also accept that all other somewhat arbitrary but meaningful distinctions don't exist:
Language doesn't exist: (a) every person has a unique set of speech patterns and vocabulary (idiolect) and (b) there are intermediate dialects between Russian and Ukrainian, Spanish and Portuguese, and between many other languages. Therefore we can not only say that 'Russian doesn't exist' and 'Spanish doesn't exist', but that 'language doesn't exist' by the logic of race deniers.
> 「共通の公共言語」という概念は未だ謎のままである…いかなる形の理論的説明にも役立たない…私の知りうる限りでは、意味と言語の外在主義理論のこの鍵概念を理解する方法は全くないし、この概念に依存する意味理論や言語哲学の仕事もそうだ。(チョムスキー 1995:48-9)
>「共同体言語」や「抽象言語」のような概念にずっと依存し続けているのにもかかわらず、それがどういうものか説明しようとする試みが全くないのが印象的だ。(チョムスキー 1993:39)
…
チョムスキーへの不同意に聞こえるようなことを大胆に示したが、公共言語についての一般的見解に対する彼の反論には、私は全く同意である。「オランダの国境近くに住む人々はドイツ側に住む人々と非常によくコミュニケートできるが、ダメットが基本的と主張する用語の意味に従えば、彼らは異なる言語を話している」(チョムスキー 1992a:101)。公共言語は交錯し重なり合う慣習の無秩序な集積であり、あるものはある人々に、他のものは他の人々に知られている。ドイツ語・オランダ語・フランス語というような明確な部分に分かれていない。
文化と遺伝子のアナロジーに注目すると、文化への懐疑論が"「そういう遺伝子があるから」という説明は、なぜそういう遺伝子があるのかやその具体的仕組みを解明しない限り循環説明になる;なぜその遺伝子が持続し続けるのかの説明ができない"というふうに遺伝子についても言えてしまう
言語の特徴のように文化一般にも、経路依存、創始者効果、中立進化、遺伝的浮動、シェリングポイント、進化的適応環境からの適応の遅れ
それとも、ある行動をすることとその行動を他人にもさせる・評価するという行動のセットは、性淘汰みたいな感じで特に理由がなくても繁栄するのか?
多均衡ゲーム
だから文化は生物種が実在するのと同じくらい実在する?
文化が遺伝子に比べて変化が速いため、「そういう行動パターンが今まであったというのはいいが、なぜ次の瞬間すぐ変わらないと言えるのか」という問いがより差し迫ったものになるのでは
(反論: 伝統主義)
昔の塾の先生と話したとき、彼は言語の特徴を適応的なものとして説明(日本語がSOVなのは日本の会話への適応 、勝ってる文化はSVO)し、一方で生物の説明は適応的ではないものとして説明(昆虫の飾りみたいな形なんて適応じゃなくてただの突然変異に違いない)しており、わたしの意見は逆だった (ただの突然変異がどうして種全体に共有されてるんだ(ボトルネック効果とかはあり得るかもしれないけども)) ことをなんとなく思い出した。