医療は異常を治すものであるべきか、それとも私達をより良くするものであるべきか
エドマンド・バークらの政治哲学における保守主義論を、トランスヒューマニズムへの反対に応用できるか?という記事。
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「なぜ「正常 vs. 異常」「ふつう vs .変」に ――単なる統計的頻度の多少や平均とのズレにとどまらず―― 規範性があるのか」という問い
「私はどちらかというと内向的すぎる方に偏っているはずだから、もっと外向的になる方が望ましいに違いない」というような推論はしばしば行われる。ここで、「内向的」は平均に比べてだったりする(「内向的」は段階的形容詞であり、reference classに相対的だ)。では、なぜ平均に近づくことが望ましいと思うのか? 「それは多くの人間は何かしら良い方向に向かおうとしており (ここには効率的市場仮説のようなストーリーが入る)、その結果としての平均は何かしら良さと結びついているに違いない、と思うから」として正当化できる?
(自分の価値観が人と違いすぎる場合にはこのような推論はできない。自分と他者の違いは価値観の違いじゃない要因――経験の違いとか――によって説明される、と仮定しての話。)
トランスヒューマニズム「病気を治療するときは、通常に近付けるという目的ではなく、明確に費用と便益を分析するべきだし、"通常"から遠ざけることが利益になる場合には、そうすべきだ。」
医療保守主義「我々の人体の知識は、限定されている。「通常」というのは、私達がその理由を知らなくても、適応に役立っているはずだ。e.g. チェスタートンの柵。だから、我々にできるのは、せいぜい"通常"に近付けることだ。」
これはすでに通常である人が「通常」を保つことの理由にはなるけれども、「通常」から外れたものを「通常」に近づける根拠にはならないのではないか。歩けない人を無理やり歩かせるのが良いというわけではないのだし。
医療保守主義「自然界において適応産物に起こる突然変異は平均して有害である――それは人間による、半端な知識に基づく介入についても同じことが言える」「より賢い最適化プロセスの産物に対し、より愚かな最適化プロセスを適用することは、ノイズを加えることと同じく、平均して産物の質を悪化させる。」
トランスヒューマニズム「適応が起こる方向というのは、生存と繁殖に役立つってことにすぎないじゃないか。もし自分の目的がそれと同じでないなら、自分の現在の人体の形が最適である保証なんてない。」
トランスヒューマニズム「さらに言えば、原始時代の環境に対して進化した人間の体が、現代社会においてそのままであるべきっていうのは、仮に自分の目的が生存と繁殖だとしても、おかしいんじゃないか。」
医療保守主義者「”壊れてないならば、治すな”」