中間団体と自由
自由主義思想の中での、政府の強制力を背景としない集団の規範・圧力の位置づけ
社会的圧力に好意的: トクヴィル、アダム・スミス、ハイエク
社会的圧力を自由への脅威として見る: J.S.ミル、アイン・ランド
アイン・ランドは、同調性が進化した人間の本能の一つだということを見逃しているという指摘
社会規範関連: ヒース&ポッター『反逆の神話』、ピンカー『暴力の人類史』に引かれてるノルベルト・エリアス『文明化の過程』(読んでない)、ジョセフ・ヘンリック(読んでない)、Joseph Heath "The violence inherent in the system"(面白いよ!))
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しかし、リベラリズムには、おそらく 1 世紀半の間は隠されていたが、再び顕著になりつつある古い分裂がある。
この分裂の一方には、中央政府に敵対し、地方、慣習、自発的、または中間的な団体、コミュニティ、および協会に友好的な多元主義的リベラリズムがある。他方には、知的進歩、普遍主義、および統一された法律の下での平等に尽力し、恣意的で非合理的な区別や不平等に反対し、宗教および民族グループ、家族、プランテーション、封建制度、および地方の田舎における地元の専制政治を打破しようと決意している合理主義的リベラリズムがある。
(DeepL)
pluralist liberalism vs. rationalist liberalism の対立、南北戦争の南部 confederacy と北部 union をイメージする
ロスバードの無政府資本主義で、すべての警備会社が同じ法を適用するとしていたのは rationalist 的
よく知らないけど、rationalist liberalism は ハイエクがフランス的な合理主義的リベラルって言ってるやつでは
Jacob T. Levy Rationalism, Pluralism, and Freedom
中間団体 (自発的な団体、教会、民族文化団体、大学など) は、個人の自由を守ることも脅かすこともできます。同じことは、中央集権化された国家がそのような集団に対して行う行動にも当てはまります。幅広い分野を網羅したこの本は、規範的にも歴史的にも、自由主義的な政治思想は、中間集団と地方集団の権力に対する合理主義的な疑念と、中間集団の生活に好意的で、中央集権化された国家に対する疑念の大部分を保持する多元主義との間の深い緊張関係に基づいていると主張しています。
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thick libertarian vs. thin libertarian 区別
イメージ:
分権主義者: プロチョイス(特に胎児が道徳的に重要だとしても中絶の自由を認めるというタイプのそれ)、リプロダクティブ・ライツ、反帝国主義、多文化主義、非介入主義、アメリカ南北戦争における南部連合、地方分権、封建制、奴隷制、ホームスクーリングの自由、親権、家庭を私的領域とし不介入とすること、James Scott Seeing Like A State、パレオリバタリアン、自治、プラットフォーマーが気に食わない表現を検閲する権利、会社が特定の意見を持つ人を雇わない/解雇する自由、freedom of association、村八分、Hans Hermann Hoppe、fediverse、Nick Szabo、親族相盗例
介入主義・普遍主義的リベラル: ネオコン、フランス革命、アメリカ南北戦争における北部連合、ナポレオンによる各侵略地域への自由主義的な法律の普及、伝統や宗教による抑圧的な習慣 への外部の人からの批判と政府の介入、「労働者の個人的な思想を理由に解雇できない」と政府が義務付けること、「学校内の暴行・窃盗も国の法律で裁け。学校に警察を入れろ。」
親同士が、お互いの家庭に干渉しないことは、大人同士の言い争いを防ぐ上で有用な社会契約になりうる。しかし、それは強国だけで会議する国連安全保障理事会のような社会契約。
カーティス・ヤーヴィンは、イギリスの植民地主義に肯定的なことと、政府機関の独立性に否定的なこと、また彼の批判するジャーナリズムとアカデミアによる政府への影響もある意味では分権的な権力と考えられることを除けば、分権主義的 (植民地主義でも、直接支配でなかったり、宗主国の影響が小さかったりする場合 (本国ではなく東インド会社が治めているとか) なら、分権的でもありえるかも)
政府内部での権力の分立を批判するけど、地理的な単位ごとの分割や、家庭ごとの自主性には好意的
暴力 (自己所有権侵害) ではないサンクション: 村八分、社会的制裁、解雇、デプラットフォーミング、ボイコット、怒鳴る
表情や目線などによるサンクションも社会規範に維持に重要っぽい
ある種の行為をしたときにサンクションされるという脅しに基づいているという意味では、広い意味で国家の強制力と同種のものと見ることができる
それらのサンクションは、規範を履行するという文脈以外で、いきなりやったら、それ自体が規範に反してしまうようなものでもある、という共通点もあるものもある (不買という行動はそういう行動ではないけれど)
もっとも、トーマス・シェリングの〈強制/強要〉区別にあるように、すべての自由侵害がこの形式をしているわけではないでしょうけど
通常の経済学の外部効果の分析が当てはまるわけではないけど、表情や言動によるサンクションは負の外部効果の一種
通常の外部効果の分析が当てはまらないのは、それらの行為が規範の維持を目的としているということは、経済学での単に利益を上げるために副次的に外部効果が発生するという話とそぐわないから
まあサンクション主体が規範の維持を選好してて、される方は規範に従う行動をしたくないがサンクションされることを嫌っていてそっちが勝っている、サンクションされる方が適切な補償をサンクション主体に行うことでサンクションやめさせる契約がwin-winになるなら契約 起こるし、そうでないならサンクションしたままでいい、みたいなふうに取引コストの枠組みで考えることもできる…のかな?
脅しにはコミットメントが必要
リバタリアン (後にリバタリアンではないとも言ってるけど) のWill Wilkinsonが、「キャンセルカルチャーのような社会的制裁は、我々が国家を頼らずに規範を維持するのに有益」みたいなことを言ってた気がする
Wilkinson は国家だけではなく性差別や人種差別といった社会的風土も自由への脅威でありうるという立場をとってるので緊張関係がある (性差別や人種差別が自由への脅威になりうるなら、キャンセルカルチャーも自由への脅威になりうるのではないか)(自由の制限ではあるけどトータルで見れば自由が増えると思っているのかもね)
The thing to keep in mind here is that most PC episodes mocked and derided by the right are not state impositions. They are generally episodes of the voluntary social enforcement of relatively newly established moral/cultural norms. Sometimes this process squelches or chills honest discussion and inquiry. I feel that way about the Larry Summers flap. But such mechanisms of indignation and shaming are precisely how societies coordinate on and defend norms of civilization without resorting to force.
One of the embarrassments of the American libertarian movement is its failure to sufficiently acknowledge how collective bias against blacks, women, gays, immigrants etc. deprives blacks, women, gays, immigrants, etc. of their freedom. To my mind, serious forms of structural discrimination are much worse for liberty than certain kinds of coercion.
In a covenant…among proprietor and community tenants for the purpose of protecting their private property, no such thing as a right to free (unlimited) speech exists, not even to unlimited speech on one’s own tenant-property. One may say innumerable things and promote almost any idea under the sun, but naturally no one is permitted to advocate ideas contrary to the very covenant of preserving and protecting private property, such as democracy and communism. There can be no tolerance toward democrats and communists in a libertarian social order. They will have to be physically separated and removed from society. (by Hans-Hermann Hoppe)
ネットワーク中立性
離脱コスト
この基準だと、小さな地方自治体は大した脅威ではないけれど、家族は自由への脅威になりうる。
related: parental licensing
自分が家出するのと、家族で引っ越しするのの、どちらがコストが低いかを比べる
むかし、「中央政府→都道府県→市区町村となるに従って強制からの逃げやすさが増えて自由への脅威が低くなる。つまり小さい方は自由への脅威になりずらい。だから家族も自由への脅威になりづらい」みたいな考えをしたことがあったけど、これは嘘で、大きさ・構成人数と自由への脅威度が相関するわけではないし、家出はそんなにかんたんなことではない。
国より自治体のほうが離脱が用意なのは、政治的境界や言語の壁があるからで、地理的・人数的な小ささと完全に対応するわけではない
先生は生徒の人数が増えるほど権威主義的になるみたいな説はある
学校のいじめに対し警察を呼ぶのはどうか
転校の容易さに応じて、外部からの介入の是非の判断を変える
たぶん子供自身の判断が転校の決定に反映されるのは容易ではない
学校のいじめに対して警察を介入させればいいって言う立場の人って警察を入れれば法律に基づいたシステムになると素朴に仮定してる気がするけど警察が法律を根拠に行動するという謎の仮定があり信用ならない
離脱コストだけでなく、ルールが公開されており嫌な人が避けるのがかんたんになっているかっていうのも重要
(集合的意思決定が民主的という仮定のもとで) 意思決定に自分が関われる度合いは構成人数が少ないほど上がるのでそれを自由への脅威度の低さと関係させる議論はできるかもしれない (exitではなくvoiceの観点)
しかし、いくら権力の差があっても、たとえば子供の持つ家庭内の権力が10%とか1%とかでも、子供が政府に対して持つ権力 (= 0%) に比べれば大きいし、何なら大人が政府に対して持つ一票の力より大きい
このように、家庭内の権力差を考慮に入れた自由 (ここでの自由はその人に関する決定にその人の意思がどれくらい反映されるかという点から捉える) の観点からも、政府から家庭に意思決定を移すことは正当化されるかもしれません。
これは自由とは関係ない話: もし社会設計で善意を仮定しない理由が人間が本質的に利己的だからではなく、利他心は周りの人には及ぶけど遠くには及ばない力だからとするなら、家族間での利他心を仮定することはべつに問題がないと考えられるかもしれない
「通学時間の長さから来るコストを子供は負担するが親は負担しないので、通学時間に応じて親に課税すべきだ」(?)
改宗を禁じている宗教は自由への脅威度が高いと言えるかも?
仕事を変えるのは、それなりにコストがありそう。
応報主義:
集団の同調圧力には集団の同調圧力で対抗 (同調圧力に反対する同調圧力?)。暴力には暴力で対抗 (警察)。不合理性を利用したマニピュレーションには不合理性を利用したマニピュレーションで対抗 (ナッジ・パターナリズム)。
『リバタリアニズム読本』:
中間団体に関して、リバタリアンは加入の自由と離脱の自由を重視するという記述があったと思う
離脱の自由と加入の自由というときの自由がどういう意味での自由かが論点になりそう
一方、私が↑で言った案では、自由ではなくコストの低さを問題にしている
親権はたしか居住地を指定する権利を含んでいるので、離脱する消極的自由すらない
居所指定権(821条)
これは狭義の強制力の使用を含んでるの?
現状存在するような形の労働組合は消極的自由と相性が悪いという話
消極的自由の場合: 強制からの自由としたときの、「強制」は、「○○したときサンクションされる」ということだけど、そのサンクションとして何が含まれるかによる
自己所有権の場合: 暴力の独占がなされている社会では自己所有権を侵害する主体は国家以外だとそこまでいないけど、体罰などは自己所有権の侵害に当たる (ただし自己所有権リバタリアンは (子供が他人に暴力をふるった場合など) 応報の場合には体罰を認めるかもしれない。その場合は、逆に誰の権利も侵害していないのに体罰されたら応報で子供が親を殴り返すことも認めるだろうけど。)
I used to be a fundamentalist Christian (I discussed that here), but even then I didn’t care much about abortion. I still consider it murder, but figure that “murder happens” to paraphrase the profane saying. I used to describe myself as “weakly pro-life”, but I’ve been drifting towards the pro-choice camp, even extending towards infanticide. I’ve ceased to be concerned as much with individual rights (not surprising given that I don’t believe in them) that some sort of platonically ideal rights-enforcing authority will ensure, and more with taking decentralization as far as it can (I don’t trust any authority to look after my interests and the larger/more powerful it is the more frightened I am of it) and contractarian based rules. If I am not willing to invade Iraq to stop Saddam from gassing Kurds, it’s just a few (admittedly large) steps away from declining to kick open Andrea Yates’ door if she wants to drown her toddlers.
ローカリズムと脱中央集権化を支持する側のはずのTGGP氏が、多様性によって信頼が低下するという研究について、それにより血縁・地縁のようなインフォーマルな組織ではなく市場と国家のような非属人的な制度の力が増すことを肯定的に見ている (??)
4. Some societies, such as in East Asia, use the family to pick up a greater share of income and health risks. I doubt if the highly mobile United States could do the same, but even so this option is costly. Most of all, the welfare state liberates the productive and the creative from their sometimes burdensome family ties. The welfare state is the Randian’s secret dream, and that is what clinches the case for a government safety net.
…第八章「ポスト工業社会への移行ーー福祉国家3.0へ」では「自由に個性を表現する個人主義的なライフスタイルは、家族に対する依存を減らす福祉国家があってこそ成立する」と指摘されているところがおもしろかった。
このヘアカットの条例は、もともと都の管轄だったのが
地方分権の流れで、区におりてきたものです。
区におりてくると、こうして声の大きい人たち(既存の理容団体など)
の声が通りやすくなって(地元密着になっていくから)、
こういう独自の条例(規制)をつくってしまう。
そうすると、結果的に、地方分権が進むと、
規制緩和と逆行する利権型の政治になる可能性が大きいなあ、
ということを実感しました。
地域単位の権力分散を行うと NIMBYが強くなるのでは?
https://gyazo.com/7636c9f010efc5864a17a656382a8477