パターナリズムとbehavioral symmetry
パターナリズムが正当化されるかもしれない理由。
ここでのパターナリズムとは、本人自身の利益のために他人がなにかを強制/禁止したり、選択肢を制限することを指す。
公共選択論では投票や政治家・公務員の行動のような政治的行動と一般人の経済的行動 は同じ人間像に基づいているべきだとする、behavioral symmetry , methodological egalitarianismという考えがある。
一見、以下の2つの点で、政府によるパターナリズムはbehavioral symmetryと整合しない (意図された目的を達成しない) ものに思える:
1) パターリズムを行う主体が、通常の消費活動をする人より合理的でない限り、本人にとって良い決定を強制するという結果をもたらすことができない (単に知識のある人が情報を付与する (ラベリング) だけではなく、販売を禁止する (医師免許制、処方箋が無いと買えない とか) べき というのは、消費者は無知であるだけでなく、不合理であると仮定しないと成立しないことに注意。情報の非対称性によって禁止が正当化されるわけではない)。
だから、民主主義国家でのパターナリズムはせいぜい、多数の国民より合理性が低い人、たとえばヤク中とか認知能力が衰えている高齢者とか子供とかを自分自身から保護するのに使えるにすぎないのではないでしょうか? もし人がパターナリズムを必要とする程度に不合理だとするなら、その不合理な人間がなぜ適切に国民の利益を考える政治家を選挙で選べると思うのでしょうか?
多数の国民にとって、自分自身よりも優れた意思決定能力を持った人間を選ぶことは、自分自身で優れた意思決定を行うよりかんたんだ、ということを言うとしても、それでは選挙ではなくインターネットで優れた人間を探して相談する/参考にする/雇うとかによって意思決定を行えばいいので、反論として成立しない
普通の人の合理性レベルに基づいてパターナリズムを行う場合、下位50%の普通より馬鹿な人を保護することはできるが、上位50%の普通より頭の良い人の活動を阻害するという感じかな。
2) さらに、売り手より法律策定者のほうが善意に基づいていると仮定しないと、規制によって本人にとって良い結果になるということを説明できないように見える。
この点でも (一見すると) behavioral symmetryを破っているように思える。
「人々が不合理/利己的だから政府介入が必要っていうけど、その愚かで利己的な人間に他人に対する強制力という力を与えたところで何を改善できるというの? それともAI支配とかを考えているのかい? もし人が不合理で利己的なら、消費行動を制限するよりも、まず (憲法のように) 強制力の使用を制限するほうがいいんじゃないの?」
消費行動の合理性ない→じゃあ法律で防ぐ→法律制定段階で合理性ない→じゃあ憲法で防ぐ→憲法制定段階で合理性ない→メタ憲法作る→…
不合理ならば厳密な意味で利己的 (自己の利益をうまく追求する行動を取る) とは言えないし、利己的だからって強制が必要になるのは集合行為問題のような状況に限られるので、この文は変
(正確には、功利主義的には集合行為問題でなくても、「Aにとって小さいコストでBに大きな利益を与える」行為が利己性のためされないというケースで、強制すると効用が増えるので良いってパターンもあるけど)
「集合行為問題を解決するためには強制力が必要だが、強制力の使用それ自体に関して集合行為問題が存在する (参照: 特殊利益団体の問題(マンサー・オルソン)、政治的意思決定に伴う外部費用の問題(『公共選択の理論―合意の経済論理』)) ため、強制力の使用が制限された状態とそうでない状態を比較したとき、前者のほうが効率性が低いとは断言できない」といったほうがいい
((1)について) ところが、人の欲求は時間を通して不整合であり、本人自身にとっても、未来の自分を縛るために制約されていることを望むことがある (例: お酒をやめたいので禁止されている方がいい)。
借金をして遊ぶみたいに、縛る側のほうが短略的な場合もあるよね
もし本人が自分を縛るために投票するという場合は、時間整合性の不在によって(1)に反論できる (もし、実際に消費行動する状況より、投票所では合理的だとすれば。これは疑わしいけれど (Bryan Caplanによればむしろ逆))。
伝統主義者は、behavioral symmetryに対し、「伝統は人間より賢い」というかも
そういうことをしない、良心がある (消費者が長期的な利益を得ることを助けようとする) 売り手は、競争圧力により淘汰されてしまう。
ここで問題なのは、 「長期的なことも考えたときの利益の大きさ(X+Y)」と「短期的にだけ考えたときの利益の大きさ(X)」は、通常は正の相関がある (なぜなら、後者に一定の項を足したものが前者になるから) けれど、tails coming apart によって、最適化を強く目指したときには負の相関が現れるということが考えられるということ。
例. 楽しい娯楽はXが大きくてYが小さいが、|X| > |Y|で、X+Yはまあまあ大きい (通常は正の相関がある)。
しかし、たとえばハードドラッグの場合、Xが極端に大きいが、Yが極端にマイナスなので、X+Yも極端にマイナスになる (、と思う――もしかしたら人生を捨てるに値するほどに大きい快楽なのかもしれないけれど!) (極端な値においては相関が負になる)。
Xを代理指標としてX+Yを最大化しようとすると、XとYが通常の範囲にある間は、XとX+Yに正の相関があるのでいいのだけど、Xを極端に大きくすると正の相関が消滅しX+Yが小さくなるという特徴があるため、最適化能力が上がると問題が発生する。
さらに、市場に限らず、ミームの競争を考えても良い。ミーム進化が、より中毒性の高いものを選択していく。
麻薬規制について、合理的経済人モデル、強化学習モデル、ミーム進化モデルのそれぞれの観点から考察せよ (20点)。
よって、(政府の人間にも、全体最適ではない淘汰圧が存在するかもしれないことを考えるなら、くじ引き政治を取る場合と比較して) 市場の内部で競争圧に服している売り手よりは (くじ引き政治の) 政府の人の方が消費者の長期的な利益を考えた行動をするということは説明できるのであり、政治的領域では人間が突然公共心に目覚めるというような仮定を置かなくても、このような状況で規制が消費者にとって良いものになる場合があることは説明できる。
(同じゲームを公共財ゲームと名付けたときとウォールストリートゲームと名付けたときには協力の比率が変わるという話がたしかカーネマン『ファスト・アンド・スロー』に書いてあった (再現性不明) ので、"政治的領域になると人が突然公共心に目覚める"というのも可能性として無いとは言い切れないけど)
あくまで「場合がある」ということであって、ここでは「人間には多少の良心があるけど、インセンティブにもひっぱられる」という人間像を政府にも経済にもどちらにも適用しているため、パターナリズムの権力を与えられたものが、なんらかの誘惑 (議員献金とか天下りとか) にかられてその権力を乱用することを防ぐものではない。
もし、パターナリズムの成功事例の利益が、そういった乱用より多いなら、パターナリズムの権限を認めることで人々の幸福は改善するだろうというにすぎない。「パターナリズムを認めない」という規範の是非を考えるときは、そういったトレードオフを考慮して総合的に考えると良い。(これは誘惑がいっぱいあるかとか、企業の政府に対する影響など、経験的事実によって変わる。)
くじ引き政治であれば、インセンティブにはひっぱられるにしても、良心を持つものが競争圧力によって淘汰されているということにはならずに、選ばれる人は平均的には一般人口の平均と同じ良心を持っていることになる。
(くじ引きで選ばれた政治家がギャンブルを禁止する、というのは面白い構図ですね。)
投票者は考えなしに投票したことのコストを大して個人としては負担しないため、合理的になろうとしたり、認知バイアスを正そうとするインセンティブがない。
政治家同士の競争を考えると、政治家は人間の不合理性・バイアスを利用してもできるだけ票を増やすように競争圧がかかっている。そういうことをしない良心のある政治家は、競争圧力により淘汰されてしまう。
とも言えるけれど。
たとえば二大政党制のもとでは、2社複占市場になるので、淘汰圧は大して大きくないんじゃないの
複数政党制の場合は淘汰圧が大きくなり、政治家はもっと認知バイアスを利用しようとする?
また(参照: ヒース『啓蒙思想2.0』、Andy Clark "Economic reason: The interplay of individual learning and external structure") 、
人間の合理性は制度的な足場に強く依存していること、
企業側は競争淘汰の過程を経て形作られた企業文化により、制度的な足場のもとで合理的に振る舞うことができるが、
消費者はしばしば企業の生み出した不安定な環境 (スーパーマーケットの中とか) で意思決定を行い、制度的な足場をもたずに意思決定を行っている場合があることにより、
企業側は消費者側の不合理性を利用することができる一方、
政府の政策には政治家だけではなく公務員が大きな役割を果たしており、政府の官僚は、制度的な足場のもとで作業を行うことができること、
などから、正面から behavioral symmetry に反論する手もあるでしょう
官僚は高学歴とか、所得とIQの相関がどうのとかで反論することもできるかも
あるいは、人は専門分化することができ、特定領域については高い合理性を発揮することができるかもしれない。ここで、この理屈が成立するためには、知識が高度であるだけでなく、合理的、バイアスの欠如が成立していなければならない。
参考: ジョセフ・ヒース、アンディ・クラーク
③他人のための異時点間選択行動の近視眼性・動学的非整合性が強いことから、「本人に代わって他の人に意思決定をおこなわせたほうがよい」という,Thaler ら一部の行動経済学者の処方箋(Libertarian paternalism、近視眼的行動の原因が「自分のことだとどうしても感情的になってしまう」ことであることを前提にしている)は,必ずしも機能するとは限らないことが示唆される.
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