パターナリズムが多様性を損なう理由
なぜパターナリズムが多様性を損なうか
パターナリズムには、強制する側とされる側がいる。
する側を権威、される側を対象者と呼ぶことにする。
パターナリズムは対象者に対し、「対象者にとって最適だと権威が考えるもの」を対象者の意思に反して強制する。
本当? 権威が考えるところの、対象者にとって悪すぎる選択肢を取り除くだけの場合もあるし、最適な選択肢以外全部を取り除くとは限らないのでは。
しかしその場合でも、何が「悪すぎる」のかを単独の人間が判断する場合には、対象者によって異なる結果にはなりづらいという、以下の論点は成り立つと考える。
対象者毎に最適なものを権威が考えた結果、結果が別々になるということは考えられるけれど、
実際は:
1. 対象者毎に対応する権威が常に同じ人だと、同じ人である以上その信念に違いが生じることはあまりないので、「何が良いか」に関する信念のばらつきからくる多様性がなくなる。
パターナリズムの対象となる個人の性質や状況の違いから来る決定のばらつきはあっても、信念の違いから来るばらつきはなくなってしまう。
(これ以外に、人Aがxをしたことによって、人Bがxをすることが最適かどうかが変わることもある。たとえば、最初は医者が儲かるので医者になるのがいいとしても、もうたくさんの人を医者にしてたらそこからさらに医者を勧めても供給が上がってて給料は低くなってるかも。)
"最"適なものが複数あることはあんまりない (ちょうど同じ価値にならないといけない)
2. 法律を用いてパターナリズムを行う場合、人毎に違うふうにすることは難しい
3. 民主主義国家における、多数派によるパターナリズムの場合、多い側の意見に合わせることになる
という理由により、個人がそれぞれ自由に選択した場合よりも、多様性がなくなることが予想される。
(ただし、親による強制の場合などは、子供毎に異なる親がいるので、大して多様性は減らない。権威が地方分権とかで分散されている場合にも、中央集権の場合に比べ、多様性が生まれる。)
その社会的帰結
しかし、トライアンドエラーの結果から学ぶことができるので、他人が参考にするための資料としては多様性がある方が望ましい。
みんなが同じ範囲を探索することは、社会全体としての探索範囲を狭めてしまう。
最適化問題において、局所最適解を避けるためにはその時点で最適とされるやり方に限らず、色々なやり方を行ったほうがよいのと似たようなことだ。
その時に権威者が良いと思ったやり方だけを行うのだと、そのときの考えが更新される機会を奪ってしまう。
その時点でお気に入りのものばかり選んでいると、さらに美味しいものを発見する機会を失う (強化学習におけるexploration/expoitation tradeoff)、というのと似ている。
これはパターナリズムが、強制されるその個人にとって最適なものを強制するという特徴を持っているために、かえって社会全体にとって悪い結果を持つ、ということ。(だからパターナリズムの定義上は、ある人に嘘をついたり、泥棒をしたりするように強いることで、その人自身を得させる、という例も含まれる)
(これは情報が多ければ多いほど、人々がより良い決定ができるという仮定に基づく。しかしこの仮定自体が、論争の対象になるだろう。たとえば、「悪い」ことをやっている人の情報があることは、真似する人が出るので良くない、など。
また、これはパターナリズムの話とは違うが、たとえば子育て手法に多様性があり、自然選択のような過程が働くことによって、必ずしも「良い」子育てが広まるわけではなく、親の都合の良いものが広まるだけ、というようなことも考えられる。)
パターナリズムが、社会全体の善のために個人を犠牲にするというタイプの強制とは異なる特徴を持っていることにより、逆のタイプの悪い社会的結果がもたらされている。
なので、この「多様性がなくなること」はパターナリズムに固有の問題であり、強制力一般の問題ではない。たとえば、むしろ多様になるように別々の強制をする、ということも可能だ。
これは論拠(1)のほうにだけ注目した言い方になってる
それに加え、強制されるその個人にとって良いかどうかだけではなく、他人にとって与える情報の価値も考慮に入れたうえで強制力の使用を行う場合も考えられる。
以上の議論は、反パターナリズムの根拠であっても、かならずしも自由の根拠にはならない
「他の人の参考になる」という情報的価値の観点からすれば、個人が個人の意思で異なる選択をするよりも、ランダム化比較試験のようにランダムに強制されていた場合のほうが、その結果から因果関係が読み取れるので価値が高い
自発的に果物を食べていた人が健康だったとして、果物を食べるような人がそもそも健康に気を使っていて、別の理由から健康なのか、果物自体が健康の理由なのかは不明だ。一方、ランダムに果物を食べる群とそうでない群に分けられた場合は、因果関係が読み取れる。
ランダムに果物を食べさせるという、専制政治を行うべきという論。
さらに一部だけ違っていて他の条件が一定である場合のほうが価値が高いので、多様なら情報的に価値が高いという一般則が成り立つとは限らない。
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