セオドア・サイダー『四次元主義の哲学―持続と時間の存在論』
時間の形而上学についてまとまっていて良さそう
最初の所が、形而上学はそもそもなんなのかについての議論を扱っていて興味深い。
形而上学についての満足の行く認識論は「まだ」ない→2000年くらいやってると思うんですけど…
初学者
こんにちは。いつもブログを読んで勉強させていただいております。
この記事に関して質問があるので、補足説明いただければ幸いです。
「多くの分析形而上学者は、存在や現実についての探求は、認識論の問いからは独立だと考える」
「…そして少なくとも一部の形而上学者は、ある程度明示的にこれに反対し、認識の問いと存在の問いは切り離せるという議論をしてきた。」
ということですが、具体的には誰がこういった議論をしているのでしょうか?
私自身、勉強を進める中でこの記事で書かれている初学者と同じような疑問を持っていましたので、もしよろしければ教えていただけると幸いです。
(この話題に関係するか確信がないのですが、Louxは教科書Metaphysics第三版のイントロダクションで、「形而上学が現実についての探求であるのか、それとも私たちの概念枠の働きの研究に過ぎないのか、という問題は、結局言語と実在の関係という大問題に帰着する」ということを書いています。at_akadaさんが参照してらっしゃる議論もこういった言語と実在の関係についての議論なのでしょうか。)
at_akada
Loux本、私が持ってるのは第二版のようですが、この本の実在論対反実在論の章などは、そこを書いたときに念頭にあったものです。
あとちょっとずれるけど、サイダー『四次元主義の哲学』の一章とか、形而上学者と言えるかわかりませんが、WilliamsonのPhilosophy Of Philosophyなどを念頭に置いてました。
カントが批判したときには、形而上学はそもそも成功しているリサーチプログラムではないという認識があっただろうけれど、いまは成功している感覚があるらしい
お互いに相手の納得行くように翻訳可能なら言葉の問題という基準でいけば古典論理と直観論理は言葉の問題?
(否定翻訳)
($ 翻訳が$ 翻訳^{-1}と合成して元に戻ることを要請すれば否定翻訳はそうではないので古典論理と直観論理の違いは言葉の問題にならない)
テッドサイダーの冒頭の議論からすると、「世界の自然な切れ目・構造」のようなものが存在すると考えることで、古典論理と直観論理と量子論理と…の中で「どれが正しい論理なのか」と問うことは意味をなすという風に考えられる?
移動スポットライト説のモチベーションとしては、現在というのが特別であるというだけでなく、時間が流れるというのをカバーしたいというのもあるのでは
(本当にできているかはさておき)
"成長するブロック宇宙"はほんとうに"成長する"か
速度が位置の微分 →物体の速度は現在の世界の状態にスーパーヴィーンしない
量子力学での運動量は位置のamplitude関数のフーリエ変換(に比例する)らしいから、現在の状態にスーパーヴィーンするのでは