メタ私は痛くない
画面の前でコントローラーを握っている自分とプレイヤーキャラクターとしての自分がいる
「『痛み』とは体が感じている反応に過ぎず、『痛み』に反応しても無益、『痛み』を観察しているもう一つ上の自分は『痛く』ない」
これは、RPG的な世界感がベースだからかなぁ、キャラクターのヒットポイントが減っただけだ、それを観察している「プレイヤー」は痛くない
っていう構造
寓話
妻の実家で、風邪で38℃の熱を出した時、とても心配された
配慮の声かけに噛み合わなさを感じた
妻の家族が慈しみ深い人間であるということを差し引いても過剰に感じた
ここで、「私」を観察している認知のレイヤーが異なっていることに気づいた
当方は、「風邪を引いた身体(私)」を観察する自分が、主人格として会話していた
「状態Aになってるってことは、明日には状態Bになって快調に向かうだろう」みたいなことを考えていた
「つらい」「苦しい」という感情は薄く、身体の不調はN日続くなと思っていた
先方は、「風邪を引いた身体(私)」を主人格として会話していた
ゆえに、身体の不調に対する感情に重点を置いた会話をしていた
阿頼耶識や末那識などの高次レイヤーの心は無記(善でも悪でもない中性的な性質)であるという考え方に近い構造を感じる