資料:アルバート・アイラー
などを参考に
アルバート・アイラー(Albert Ayler、1936年7月13日 - 1970年11月25日)
1960年代のフリー・ジャズにおける重要人物の一人
「これまでには決して存在しなかった。ジャズの歴史の中で、これほどまでに剥き出しの攻撃性というものがあっただろうか」
アイラーの音色は、深みのある激しいものだった。
その結果、旋律を伴った和声だけでなく、音色や音質までも、音楽の土台となることが実証された。
アイラーの、恍惚感すら感じられる1965年や1966年の音楽、『スピリッツ・リジョイス』や『真実が(行進して)やってくる』等は、批評家にブラスバンドの音と比較されたりしてきた。そして、そうした曲では、単純で行進曲のようなテーマと、激しい集団即興とが交互に現れては繰り返され、ジャズの「ルイ・アームストロングのルーツ」までも思い起こさせるものだと受け止められた。
オハイオ州クリーブランドに生まれる。
アイラーが最初にアルト・サックスを習ったのは、父エドワードからだった。アイラーとエドワードは、教会で二重奏を披露していたのである。 10代の学生としては優れた技量を身につけていたため彼はクリーブランド近辺で「バード」のあだ名を持つチャーリー・パーカーにちなみ「リトル・バード」として知られるようになった。
弟のドナルド・アイラーもプロのトランペット奏者で、兄弟共演したこともある。
1952年、16歳の時、アイラーはブルースの歌手でハーモニカも演奏するリトル・ウォルターと一緒に、時に自動車のクラクションにも似た音を出しながらR&Bのスタイルのテナーを演奏し、酒場でのライブ活動を始めた。こうして夏休みを2年連続でウォルターのバンドで演奏するのに費やしたのである。
高校卒業後、アイラーは軍隊に入隊し、そこでいろいろなミュージシャンと即興演奏を披露しあった。そうした相手の中には、テナーのスタンリー・タレンタインもいた。
1959年にはフランスに駐在し、晩年の演奏活動の根源を成す影響を与えたと思われる軍楽にますます親しむこととなった。軍隊を除隊後、アイラーはロサンゼルスとクリーブランドで音楽で身を立てようとしたが、彼の演奏が伝統的な演奏のスタイルを打破する傾向をますます強めていたため、つまり伝統的な和声からますます遠ざかるものとなっていたため、クラシックなスタイルを身上とするミュージシャン達からは歓迎されなかった。 アイラーは1962年にスウェーデンに移住し、そこで録音を積み重ねていった。ラジオの収録にスウェーデンやデンマークのグループを率いて出演したり、1962年から1963年にかけての冬にはセシル・テイラーのバンドにノーギャラのメンバーとして参加して演奏したりしている(長く噂になっていた、テイラーのグループに参加したテープは、2004年にレヴァナント・レコードから発売された9枚組CDに収められている。)。
アルバム『マイ・ネーム・イズ・アルバート・アイラー』では、スタンダードを演奏している。コペンハーゲンのラジオ局のために、地元のミュージシャンとのセッションを録音したものである。ミュージシャンの中には、ニールス=ヘニング・エルステッド・ペデルセンやドラマーのロニー・ガーディナーたちがいた。アイラーはテナーの他にソプラノ・サックスを「サマータイム」といった曲で使用している。 アイラーはアメリカに戻り、ニューヨークで活動を始める。
ベーシストのゲイリー・ピーコック、ドラマーのサニー・マレイとともに、強い影響力を持つトリオを結成した。このトリオは、アイラーの重要な転機となったアルバム『スピリチュアル・ユニティ』(ESPディスク・レコード)を発表した。同アルバムには、約30分間の強烈なフリーの即興演奏が収録されている。本作はフリー・ジャズの著名な作品として知られ、収録曲「ゴースツ」はアイラーの代表曲とされている。 エリック・ドルフィーがアイラーのことを「これまでに出会った中で最も優れた演奏家だ」と言ったという話があるが、こうしたニューヨークのジャズのリーダーの一部から評価され、アイラーはフリー・ジャズの聴衆を増やしていった。
彼はジョン・コルトレーンのような経験豊かなベテランだけでなく、今まさに生まれ出ようとしていた新しい世代のジャズ演奏家達にも影響を与えた。
1964年にはアイラーは、先のトリオのメンバーにトランペットのドン・チェリーを加えたバンドでヨーロッパをツアーして回っている。このツアーは録音され『ヒルヴェルスム・セッション』として発表された。 アイラーのトリオは、オーネット・コールマンらのフリー・ジャズの後継者だった。
マレイは安定した周期的なリズムを刻むことはまずなく、またアイラーのソロはスピリチュアルなものであった。しかしトリオでの演奏は依然としてジャズの伝統を感じさせるものだった。
このグループによる次の演奏は、トランペッターの弟ドナルドが加わったもので、これまでの演奏のあり方を根底から覆すものだった。アルバム『ベルズ』から始まる、ニューヨーク・タウンホールでのコンサートの録音には、ドナルド・アイラー、チャールズ・タイラー、ルイス・ウォレル、サニー・マレイらが参加している。 アイラーは連続して行進曲、-あるいはメキシコの伝統的な音楽のスタイルと言うべきか-、を演奏する方法を採り入れ始めていた。彼らはテーマと、複数のサクソフォーンが同時にフリーな即興演奏を倍音を出しながら吹くパートとを交互に演奏した。野性的かつ唯一無二なその音は、アフリカがルーツと思われる集団即興に立ち帰らせるものであった。 この新しい音は、スタジオ・アルバム『スピリッツ・リジョイス』で確固たるものとなり、さらに同じ顔ぶれによるニューヨークのジャドソン・ホールでの演奏が録音された。 アイラーは、1970年にインタビューで、自らの後期の演奏のスタイルを「エナジー・ミュージック」と呼んでいる。これは、そもそもアイラーと、コルトレーンやサン・ラらが演奏していた「インターステラー・スペース」と対比してのことである。 この方法は『ヴィレッジ・コンサーツ』まで続き、アイラーが本でいうように、ESPレコードはフリー・ジャズの主要なレーベルとしての地位を確立した。
1966年、アイラーはコルトレーンの強い勧めもあってインパルス!レコードと契約した(1968年のアルバム『ニュー・グラス』は、大半の楽曲がボーカル入りという異色作である)。 コルトレーンは当時インパルスの中心的な呼び物とでもいうべき存在だった。しかし、インパルスから録音を発表するようになったにも関わらず、アイラーの根底から従来の音楽とは異なった演奏が多数の聴衆を獲得することは、決してなかった。コルトレーンは1967年に亡くなったが、アイラーは彼の葬儀で演奏した数人の演奏家の一人であった。
1967年後半には弟ドナルド・アイラーがいわゆる神経衰弱となった。ニュージャージー州ニューアークで発行されていた音楽雑誌『クリケット』の編集者アミリ・バラカとラリー・ニールへ宛てた手紙の中で、アイラーは「空中に不思議な物体が浮かんでいるのを目撃した」と語り、彼と弟は「額に全能の神のしるし」をつけられていると信じるようになった、と語っている。
その後の2年半、アイラーは空想的でヒッピー的な歌詞を、同棲していた恋人メアリー・マリア・パークスにたびたび書いてもらっていた。彼のアルバムに、ブルースロックのキャンド・ヒートのメンバーの一人が参加したりもした。 アイラーは自分が音楽を始めた時のルーツに立ち帰り、R&Bの要素やファンキーなもの、エレクトリックのリズムなどを採り入れ、さらにはホーン・セクションに新たな楽器を追加したりして(例えばスコットランド高地のバグパイプなど)数曲、仕上げている。1967年の『ラヴ・クライ』は、この方向に踏み出したことの具体的な成果だった。 アイラーはスタジオ・ライブ録音、例えば「ゴースト」や「ベルズ」でフリーな即興演奏を抑え気味にしている。
その次に発表されたR&Bのアルバム『ニュー・グラス』は、多くのファンから彼の作品で最低のアルバムだと酷評された。このアルバムの商業的失敗の後、アイラーは、彼がかつて演奏していた「宇宙ビ・バップ」の録音と『ニュー・グラス』でのサウンドを結びつけることを、彼の最後の2枚のアルバムで試みる。 1970年7月、アイラーはフリー・ジャズの演奏法に立ち帰った。フランスでショーを行うグループのためである(マーグ財団美術館での演奏を含む)。しかし、彼が集めることができたバンド(コール・コブ、ベースのスティーヴ・ティントワイス、そしてドラムスのアレン・ブレアマン)は、彼が初期の頃に組んでいたバンドほどにはその素晴らしさを理解されることはなかった。
アイラーは1970年11月5日に姿を消し、11月25日にニューヨークのイースト川で死体が見つかった。自殺と推定されている。 その後、アイラーは殺されたという噂が広まった。
後に、パークスは「アイラーは落胆して自らの失敗を悔い、弟の問題について自身を責めていた」と述べている。パークスは
「彼は死体が見つかる直前にも、実際に何度か自殺しようとした。そして、自殺をやめるよう説得しようとすると、テレビの上に置いてあったサクソフォーンを1本取り上げて、粉々に打ち砕いたことがあった。それから、自由の女神像のフェリーに乗って、船がリバティ島に近づいたところで川に飛び込んだのだ」
とはっきりと述べている。
アイラーの亡骸は、オハイオ州クリーブランドに埋葬された。
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アメリカのジャズ・サックス奏者。オハイオ州クリーブランド生まれ。
7歳のときテナー・サックス奏者の父親からアルト・サックスを習い、小学校4年で演奏会を開いている。高校ではオーケストラの首席奏者を務めながら、15歳からリズム・アンド・ブルースのバンドでプロ・ミュージシャンとしての仕事もしていた。
高校を卒業してからは自分のバンドをもつようになったが、当時のあだ名はアルト・サックスの名手チャーリー・パーカーの愛称「バード」にちなんだ、「リトル・バード」であった。これは、彼が基本的なジャズ・サックスの演奏技法に充分習熟していたことを示す逸話である。
1958年兵役につき、軍楽隊でテナー・サックスに転向し、所属部隊がフランスに駐留した際、パリのジャズ・クラブに出演したこともある。 1961年にフランスで除隊し、本国へ戻らずに北欧へと向かう。
スウェーデンでコマーシャル・バンドの仕事についたが、ときには地下鉄の構内で演奏するような生活環境であった。
こうした状況のなか、1962年にはストックホルムのバード・ノートというマイナー・レーベルで『ザ・ファースト・レコーディングVol. 1』『同Vol. 2』を初レコーディングしている。取り上げている題材は伝統的スタンダード・ナンバーだが、演奏の内容はオーソドックスな「ハード・バップ」を大きく逸脱する、極めて個性的なスタイルとなっている。
翌1963年『マイ・ネーム・イズ・アルバート・アイラー』を録音し、折からのフリー・ジャズ・ムーブメントに沸く先鋭的ジャズ・ファンの注目を集める。
このころフリー派の巨頭セシル・テーラーと知り合い、コペンハーゲンのジャズ・クラブ「カフェ・モンマルトル」で共演し、これを聴いたテナー・サックス奏者ジョン・コルトレーンに大きなショックを与えた。 同年アメリカに帰国し、1964年にはESPディスクに、ベース奏者のゲーリー・ピーコックGary Peacock(1935―2020)、ドラム奏者のサニー・マレーSunny Murray(1937―2017)を従えたアルバート・アイラー・トリオで『スピリチュアル・ユニティー』を録音、新たなフリー・ジャズ・スター登場をジャズ・シーンに印象づける。 この年、前記の2人と新たに加わったサイドマン、トランペット奏者のドン・チェリーを引き連れ、ふたたびヨーロッパに渡る。 1970年行方不明となり、11月25日早朝、溺死体がニューヨーク、イースト・リバーに浮かぶ。
たまたま同日、日本では三島由紀夫が東京・市谷の自衛隊駐屯地で割腹自殺したところから、当時の日本のジャズ・ファンは、二つの事件に一つの時代の終焉(しゅうえん)を見たりもした。 彼のジャズ史的位置づけは、1950年代末に登場したコールマン、テーラーといったフリー・ジャズ第一世代に次ぐ、1960年代に登場した次世代フリー・ジャズ・ミュージシャンというものであった。
だが、本来のフリー・ジャズの意味が「さまざまなジャズ・スタイルからの自由」であったように、アイラーの演奏は誰にも似ていない。 とはいえ、ジャズという音楽は「感覚の直接的表現」を大きな価値としており、そうした観点からみれば、アイラーの音楽はジャズの伝統的表現法から逸脱するものではない。現に1960年代ジャズ・シーンに圧倒的な存在感を示したコルトレーンに、アイラーの音楽は大きな影響を与えている。