読んだもの日記(イ)2026年5月
05/31ななる
畑仕事をした。けっこうやった。
台湾料理を食べた。地元に店が多い。おいしい。
ゴミゼロの日。
小説の外部の時間と内部の時間の関係に興味がある。
小説の推敲をした。
季刊アープラの原稿が、原稿用紙10枚くらいになった。興味ある方はお楽しみに。
クラウドファンディングを募集している。はたして反応やいかに。
小説を書くことと読むことは個と全体の交流。小説はその場。
いまの若い人はどういう文章の書き方・読み方の指導をされているんだろう。それによって本の選び方・読み方も変わってきそうだ。
ミルクティー、コーヒー、コーラ、けっこう甘い飲み物を飲んだ一日だった。
明日からもがんばろう。
貯めてある『新潮』をたまに読む。最新の文学が、読み返すたびに過去になっていく。おもしろい。
Kindleで評論集を出そうと思い立ち、noteでここ五年くらいの原稿をまとめた。電子書籍にする記事は非公開にした。これから編集する。愉しい編集の日々の始まりだ。
今日で五月は終わりか。短く感じる日々だった。お疲れさまでした。
ミルクティーは紅茶牛乳または牛乳紅茶とはいわない。なぜだろう。
ひとつだけ、オーケストラのスコア(総譜)をもっている。チャイコフスキーの交響曲第六番。高校時代に買ったもの。
若いジャズピアニストの人の演奏動画をみた。すごいなあ。
ときははや六月 雨の予感せり so.icon甘き切なき日々 涙にぬれぬ
05/30
ぽかぽか。
淹れたてコーヒーが美味しい。喫茶店にいるようだ。
少しずつ積み重ねていくことが大切。
日本近代文学で、印象的な主人公を描いているのは夏目漱石だろう。
アープラノートのページを増やしていこうかな。なんでも書けるのがいいところだ。
単語のひとつひとつが他のテクストとリンクする文章。
カレーを食す。美味なり。
『嘲笑う密林』という小説が『魚の夢』の中で言及される。
注文していた辞書類が届いた。ついに『広辞苑』を手に入れた。英英辞典も。
テレビで、日本は景気がいいのかどうかといった話題がやっていた。
畑仕事に精を出していきたい。
父とよく見ていた番組をみると父を思い出す。
つかっちゃんのライブを見る。ニコニコのころから交流がある人で、小説、とくに純文学をしこたま読んでいる。おもしろい。最近一言書評本を出したらしい。 週末はYOUTUBEでいくつかおもしろい番組(ライブ)がやっている。
交流がある人の創作を体験するのが好きだ。単なる交流ではなく、魂のレヴェルで刺激になる。その人の創作・表現を知ることで自分にもおもしろい刺激となり、深い変化が起こる。
「最も重要なのは文学の世界は真暗ということだ。文学とは言葉の世界でありそれは暗闇の世界である。」『魚の夢』ペーパーバック版p161。まさに。文学は盲目なのだ。世界が見る盲目の夢なのだ。言葉でできた暗黒だ。
アフォリズム集としての『魚の夢』。
つかっちゃんの小説『存在しない川』は読んでみたい。
人は言葉で嘘をつけるが、言葉のもつ力で嘘はつけないのだ。これは斧で薪を割ることはできるが斧をマシュマロのように軽々とあつかうことはできないようなものだ。
文学の世界に大きな運動を起こせないだろうか。カードはそろっている。
原稿用紙に清書するということをしている。
私はアウトサイダーなのか、アザーサイダーなのか。
「?」「!」「……」の詩学。
文学は、(濃度が濃いほど)読んだ人の考えを変える力があるので、誰かに読まれる≒本が売れるのはたいへん難儀だ。
05/29
いただいたコーヒーの粉を淹れて一杯。うまい……!
力仕事だった。ぽかぽかした。
井筒俊彦の話をした。
今後のことについて考えた。
何冊か注文していた辞典の一部が届いた。『言泉』と『大辞林』。
アビ・ヴァールブルクに『ムネモシュネ・アトラス』というプロジェクトがあるのだが、それの日本語訳版を国立国会図書館で引き出してもらって読んだことがやある。大きな本で、さまざまな図像の分析が書かれているおもしろい本だった。
重大な決断をしつつある。
友達には優しくして、大事にしよう。
『山吹散るかほろほろと』の初回を読み返す。いい冒頭だ。いい作品になるだろう。
05/28
話し合いがあった。緊張した。
どうやっていくべきか?
Xの使用によって文体が変容する。そんなきがする。
長い間のかたよりが、かたちとなり、なにかをかたちづくる。
永田さん(n11さん)のことを思い出す。一緒に話したり音楽をきいたりしてたのしかった。
今月は文章を書きすぎたかもしれない。26000字以上。もうすこし抑えめにしたほうがいいか。
畑はいいものだ。ハチがいるけども。
久しぶりにバチでパラディドルやラタマキュを叩いた。むかしパーカッションをやっていて、ひととおり基礎は練習した。
ドラムはほぼプレイしたことがないのだが、電子ドラムをやってみたい。
愛器のミニカホンをつれづれなるままに叩いた。やっぱり、自分にとって自由に音で表現できる楽器のジャンルはパーカッションかもしれない。そのうち音程で表現できる楽器も自由に弾けるようになりたいものだ。
ドミューンでハリー・スミスの特集番組をやっていた。興味深い人だ。
ストリートで演奏してみたい。
ロール(連打・乱打)をメインに録音した。明日公開される予定。パーカッションのロールはプレイのすみずみまでニュアンスにあふれている。シビアにもリラックスしてもそういう音が出る。身体性にあふれた奏法だ。
楽器の演奏をやったあとは、落ち着かない。読書などで文字にふれたりすると気がやすらぐ。
05/27
むし暑い一日だった。
スムーズな一日だった。
人と握手をした。
実入りがあったので、Amazonで古本を買った。どれも分厚くて値が下がっている本にした。
若さをとびこえて老いはない。
兄がいそうだといわれた。こういう類推されるのはうれしい。
05/26
「楽しみ」はふんふふーん、というかんじで、「愉しみ」はふっふっふ、というかんじ。
物語や小説には未完成なところがある。ストーリーとは未完を補完する動きだからだ。
ある特定の文脈でしか作用しない強烈な体験というものがある。劇薬文学で支配されているのはそういう体験である。
着々と物事が進んでいる。
新たなビジネスに着手しようとしている。
過去にこだわるべきか、こだわらぬべきか。
原稿が枝分かれした。なんと……まさに可能性の萌芽。
近代小説の人間像からの脱却。
05/25
刺激的な会議があった。今後の見通しと具体的に行うことを話し合った。ホワイトボードが活躍した。
もっとPCやインターネットに強くなりたいものだ。
コーヒーの粉をいただいた。いい香りで、美味。
過負荷におちいらないようにしましょう。
カフカは一生に一度くらい読んでもいいでしょう。
デレク・ベイリーのギターの音はナイスだ。いちなんちゃってギター弾きとして目指したい音だ。
ドローイングのやりかた本を手に入れた。きがむいたとき絵を描いてみよう。
『Dr.コトー診療所』の2巻と、『ヴィンランド・サガ』の4巻、『読みたいことを、書けばいい』をゲットした。どれも愉しんで読みたい。
物語には、外部からの何かあるいは「それ」を追い出す物語と引き入れる物語がある。
村上春樹は1Q84で南総里見八犬伝のパスティーシュを行った。ただし伝奇的要素を控えめにして、描写に新しい風を吹き込んで。その具体的な一例がリクトーさんの卵型のメタファーなのだろう。これは球体、八犬士の玉と対応できる。
正義感の強い作家は悪を書くのが上手かったりする。自分で否定したいものがしきりにオブセッションとして生まれてくる。自分の思う肯定的なものを高めるために、深遠な闇にわけいり、強度のある否定的なものを生み出すともいえる。この場合、創造しているのは、元からあった肯定的なものではなく、深淵から立ち昇ってきた否定的なものである。
大江健三郎は読みやすいと思って読めば、案外にモダンで読みやすい。村上春樹以前の支配的な文章家だったのだろう。
宗教はなくなるか。紙の本はなくなるか。小説はなくなるか。逆にかんがえてみる。これらを構成している言葉そのものはなくなるか。
小説を書くのは、手軽だが、骨が折れる。
クラウドファンディングに、さっそくひとり応援者があらわれた。ありがとうございます。愉しい。
三島由紀夫に似合う髪型ってなんだろう。短髪時代が多いきがする。
もしクラウドファンディングが成功した場合の出版社は、ほとんど決まりそうだ。
何にともなく、強烈な感情というものが欠けているきがする。強烈な感情がなければ、時間というものも平淡になってゆく。
何にともなく、という表現はいいな。何にともなく。
ネットサーフィンで、2021年からある自分のブログをみつけた。最近は更新せず。そういえば、廃墟のようなネット上のオブジェクトはいいものだ。いろいろあったが、昔のものはもうだいぶ消えてしまっただろう。
小学校のころだったか、オレンジ色の透明な下敷きをつかっていた。光に透かすと綺麗だった。落書きや傷がたくさんあった。
人と話すとさまざまな知見がえられる。相手がおもわぬ意見や経験をもっていることしきりだ。
目的のないおしゃべりが支配する世の中。
『2666』の大きな反響元をやっとひらめいた。マルキ・ド・サドだ。アヴァンギャルドとさえいえる、残虐執拗なくりかえし。これは『魚の夢』にも通ずる。そういえば、『魚の夢』を読んでいたのだった。この作品もサドの影響はなはだしい。お試し読みで、二部以降の巻もかいま見た。やはりくりかえしが多い。これによって、『魚の夢』は『カラマーゾフの兄弟』を超えるアナクロニズム(褒めている)、つまり19世紀以前の、前近代、あるいは中世といってもいい時代の匂いと、『カラマーゾフの兄弟』以後の、つまり19世紀以後のカルチャーをふんだんにとりこんだ「巨大で複雑な書物」となっている。この点で前者は後者を軽く凌駕する。ちなみに私は『魚の夢』について最初から順番に読んでいくという読み方をとっていない。なぜならこれからの人生でおりにふれ(ひょっとしたらさまざまなヴァージョンの)『魚の夢』を読み、読み、読みに読み、これとつきあっていくだろうからだ。おそらく読者はこの作品に何か一言いいたくなる部分あるいは全体があるにちがいない。しかしそのことが読む原動力となり、もしくは書く原動力になるのだ。総合小説とは他を喰らい、他を太らせる、それ時代無数の材料でできた、膨大な書物であり、電撃のような詩であり、一匹の怪物なんだ。
『魚の夢』を、どうにかして、同人誌でもいいから他のヴァージョンの書籍にできないだろうか。この本は複数のヴァージョンがあったほうが絶対におもしろい。
令和アンダーグラウンド文学界隈(「令和アマチュア文学界隈」だと、つまらないのでこう命名した)には、二つ以上の潮流がある。ずばぬけて力のある書き手がいる流れをみてみよう。ひとつにはみずみずしいリリシズムとインテリアルなデザインと美学につつまれた村上春樹由来のリクトーたちをはじめとする流れ。もうひとつには禍々しいノイジーで歪んだ美意識に彩られたドストエフスキー的なMMMらの流れである。このほかにも無数の流れがあり、もりもり力をつけている書き手が存在する。おのおのの書き手の求め信じる道があり、その上空では綺羅星のごとき美がまたたいている。
05/24
休日ということで午後まで寝てしまった。そんなに疲れた感覚はなかったが身体は疲れていたのだろうか、それとも惰性で眠っていただけか?
これから日本語はどのように変化していくのだろう。10年おきくらいに日本の雑誌などの文体をチェックすれば、なにかわかるかもしれない。しかし、なにがかわっていっているのかわからないから、どこをチェックすればいいのかわからない。研究にするなら、具体的に細かく見ていったほうがいいのだろう。
『沖縄の生活史』という本がおもしろそうだ。沖縄の人に話をしてもらったものを採録したらしい。沖縄にはいちどだけいったことがあるが、暖かくて、時間の流れがゆっくりかんじられるところだった。そこではどのような生活がおくられているのだろうか。それがかいまみえるだろう一冊。
窓からカラスが見える。
自作の中にほかの自作への言及をいれることについて。後期ニーチェがよく自著に言及している。主に褒めている。大江健三郎もそうだ。ニーチェは狂気にかられ、大江はノーベル賞という権威をもっていたので、自著に大胆に言及する(自著をとりこむ)ことができたのだろう。一個の品の中に別の品の紹介をいれるとは、究極の広告だ。
日本文学における美の問題は、三島由紀夫以降どうなっているのだろう。あまり前面にはでていないようにおもわれる。MMMはそこのところをテーマのひとつにしている書き手のようにみえる。
日記を書きつづけていると、しばらく延々と文章を書いていなかったという実感がわく。書く力がよみがえり、鍛えられる。
キーボードのかな打ちに慣れたい。まだまったく身についていないのでゆっくりだ。
同人誌などで、日記・エッセイブームが起きているらしい。文学フリマでも人気のジャンルのようだ。コロナ後、戦争の絶えない時代ならではの需要もあるのかもしれない。
昔の、録音のない時代のオーケストラの技量はいかほどだったのだろうか。いまと変わらなかったのか、いまより楽譜通りに演奏できたのか、できなかったのか。
MoE(Der Mann ohne Eigenschaftenの略称)をよく読む。寝る前に『The Avignon Quintet』へ……
05/23
スポーツ大会があった。ラジオ体操と運動をした。身体を伸ばして全身を動かすのは愉しい。
運動をすると、疲れもするが頭がはっきりする。
人とデリダについて話していて、『エクリチュールと差異』を読みたくなった。あと『散種』。
昭和は生硬な文学が主流で、平成~令和は軟派な文学が主流なきがする。
高田大介『記憶の対位法』を、去年買ったまま積んでいた。一目みるに、パズル的な知的な文体で読み心地がいい。
本につけられた折り目、傷、焼け跡さえ、ひとつの情報になる。
安部公房の小説作品は、だいたい不条理なシチュエーションのコントみたく始まる。短編だとそのままモチーフを発展させ、長編だとさらに複数のモチーフが導入されて展開していく。案外、クラシック音楽のように構造はしっかりしている。物語内の方法と文体そのものが自由闊達なので、杓子定規な話には思われない。
入浴中、ホラー小説についての考えがうかんできた。いつか書いてみようか。
発見された『文藝』の2011年冬号を読む。当時は震災後の言葉の表現として物足りないものをかんじていたが、いま読むとバラエティーに富んだ散文が載っていておもしろい。他の読書にもつながりそうな一冊だ。
その後、これも発見された2025年秋号を少し読む。「戦争」特集である。14年の時を経た(微妙な)変化がおもむきぶかい。岸本佐和子という翻訳家の方が、日記を連載していた。ちょうど三月から五月いっぱいのぶんだった。風向きしだいではこの日記もどこかに載せうるかもしれないと、勇気づけられる。その日記のタイトルがおもしろい。『尻 on fire 日記』。
今年は、生活リズムがこなれてきてすこぶる調子がいい。こんなに体調の優れた日々は十何年かぶりだ。黄金の日々!
衣・食・住は人にとって大切なものだ。これらが最低限満たされていれば、落ち着きがでてくるもの。
『魚の夢』を、二段組で一巻本で出してほしい。一冊に綴じられた書物というのはスバラシイし、二段組の独特の良さというものがある。この作品はそれらにふさわしいだろう。
パソコン・インターネット導入以後の文芸の文体に興味がある。つかう言葉などに大きく変動があっただろうとおもう。
複数のことに応用できる言葉の集まりが思想で、それを意図的に統一しようとする体系が哲学だとおもう。書物でいえばだけども。
肉体は、いくつもの筋の集まりだということが体感で理解できてきた。同時に、もろいものであることも予想できる。大切にしていかなくては。
『2666』を読んで、本の書きかたを学んでいる。不気味な作品だが、いいようのない魅力がある。
ことばへのフェティッシュな感覚だけで文章を書きつらねたい。そうすることでどういうエクリチュール(文の芯)が生まれるか試してみたい。
原稿用紙が余っていたので、加筆修正しながら自作を書き写した。400字詰め二枚ほどおこなった。ずいぶん推敲したとおもっていたが、まだまだ変化しようがある手ごたえをかんじた。
小説を書くのは、手軽だが、骨が折れる。
アイコンがカッコいいとたびたびいわれるので、SUZURIという自作のデザイングッズを売れるサイトでTシャツを売りはじめた。ぜひ街中で着こなしてほしい。
クラウドファンディングがスタートした。手探りだし、目標は高い。とりあえずの試みである。定期的に宣伝していく。
05/22
雨が降っており、寒かった。薄着で出かけたらクシャミがでた。
前途多難な話を聞いた。大丈夫だろうか。
フリーゲーム熱に火をつけたい。とりあえず『Fanastasis』をダウンロードした。この作品は何度かダウンロードして少しやったことがある。
出先には、『新明解国語辞典』をもっていった。
いままで『死霊』について書いてきたものをまとめて、『死霊』のムック本をつくることもできるかもしれない。同人誌では見たことがないので、つくる意義はあるはずだ。あくまで『死霊』にフォーカスをあててつくるのがいいかもしれない。
頭を悩ませる問題の場合に、その主体がなにもない、どこにも存在しないということもあるかもしれない。
『源氏物語』を手元に置いている。古語でも現在に生きている言葉があるのは驚くべきことだ。
何かを味付けする場合、ショウガをつかうという手がある。おいしくて薫り高い。
嘘を付く時でも、話す言葉は実際に意味をもっていなければならない。わけのわからないことを言って理解されず本当だと信じてもらえないので嘘にすらならない。
自分は中国語を学ぶべきだろう。中国古典を好むし、漢文を読むことに違和感がない。よくわからないときは、もっと知りたいと思う。本場ではあの漢字をどのように読むのか興味がある。また、老荘などの思想哲学にたいへん関心がある。
今日は薄曇りで肌寒く、まるで秋の日のようだ。
文章から、どれくらい個性を消すことができるのかに興味がある。
ギリシャ人がアルファベットをつくったわけではない。アルファベットをつくったのは他のそれ以前の人々だ。文字の開始地点から離れるにつれ、言語の抽象度は増すのだろう。文字がそれそのものを表しているわけではなくなってくるからだ。
05/21
雨が降っていた。
アイロンをかけつづけた日だった。
帰ってから昼寝をした。
気長にいこう。
かたかたと作業。
長い時間をかけてなにかに取りくむということはいい。
人生にもそうだが、文体にもビートとかグルーヴとか独特のユレがあるとおもう。それはバイオリズムによって右往左往する。
堀江敏幸を読んでみたい。それにしてもすごい著作の数だ。
音楽家は若々しい人が多い。しかし老人っぽい人がやる音楽はどんなものなんだろう。
『新明解国語辞典』がおもしろい。歴代の序文を読んだ。中型や大型の辞典なんて、いくらでもずっと読みふけることができるだろう。
『『青年の環』VS『豊饒の海』』という本があるが、それはいわばそれぞれの作家が私淑したサルトルとトーマス・マンの代理戦争をしているといってもいいだろう。行司をしているのはバルザックかドストエフスキーだろうか。
05/20
昔を思い出していた。
暑い日だ。
推理ドラマをみていると、犯人より悪知恵がまわってだれがやったかわかってしまうことがある。
いま手を入れている原稿が3000ページくらいあるのだが、本にするには膨大すぎるし余計な記号が含まれているので編集している。
今日では無料でペーパーバック本を出版できるわけだが、読む側は買う必要がある。あらためて本の価値とはなにか、価値をつくりだすとはどういうことかを考えてみたい。
まるで問題集のように短編集を手に取る読者。
ちがうものどうしでなければ、比喩にならないのだろうか。
各言語圏で記号の使い方はちがう。記号の使い方は見取りやすいその言語圏の特徴かもしれない。
日本語で外国語を書いているような気が、ときどきする。
コンテンツは、見方をかえると、ちがうものになる。
人文ウォッチをよくみている。流している。
もしかしたら、いまやもう小説の読み方・読まれ方が以前とはまったくちがってしまっているのかもしれない。その先になにがあるのか。
長く残ることだけが目的なら、黴にでもなってしまえばいい。
『FEU』という雑誌の創刊号を読んでいる。詩の翻訳やヴァレリー、アルトーの翻訳と論などがある。
05/19
昨日から筋肉痛がある。腿の裏が張っている。全身の筋肉が繋がっているのを、まさに体感する。
今は簡単に本が自分で出版できるということを人に紹介した。
昨晩は原稿の編集を黙々とやっていた。愉しい構想を思いついた。
持続することは何かを仕上げていくうえで大切だとおもう。
noteのデータをダウンロードして、Wordで編集している。が、大量のコードが記述されていて文章だけに修正するのがたいへんだ。ことによっては、数年がかりの作業になるかもしれない。
フリーゲームの世界は、わが心のふるさとである。
読点の位置を検討することは、十分に批判的な読みであるとおもう。
三島由紀夫が「私の文体は、鴎外、プラス、マンだ」ということを言っていたが、自分の文体は、ディスコード、プラス、コセンスだ。
頭の中でしか考えられないこと、表現できないこと。身体で考えること、表現できることもある。
水のような言葉が流行ればいい。
大いなる喪失の前には、予兆があるとおもう。
ここ数年で電子ツールが一挙に刷新されはじめて、戸惑っている人も多いのではないかとおもう。そういう時代の流れについていくために電子技術にかかずりあっていると、とうぜんアナログへのかかわりも遠のいてしまう。読書離れもそのあらわれかなとおもう。
若いうちは、やりたいことのために冒険したほうがいいとおもう。同時に、堅実さも大事だとおもう。
朝井リョウ『イン・ザ・メガチャーチ』はどんな話なのだろう。装丁が美しくていい感じ。
バックスペースの哲学。バックスペースによってわれわれの思考はどう変わったか。
そのうち大江健三郎を読まなくてはいけない。
ロラン・バルトを読みたい。栄養になりそうだ。
長い時間がかかる、膨大な作業も、こつこつやっていれば、あるとき、またはいつのまにか終わる。
『2666』を座右に置いて作業している。たまにページに眼をやる。キャラクターへのフェティシズムの脱色を行った小説。
わかりにくい説明をしても、「ああ、それでわかるよ」という人がいる。「それ」でわかることが多い人ほど、生活上の芸術家だとおもう。
寝る前にメルロ=ポンティを読む。自分は彼の本を一種の文芸として読んでいる。創造的で、みずみずしく、美しい。
05/18
文学の聖域というものを侵すつもりはないが、今や、文学は一語一語が別の一語一語に代替可能な、巨大な「概念のかたまり」になっている時代であると思う。そこにある種の作家たちの居場所はあり、新たな鉱脈がある。
だれであれ、何かを主張するなら、実作をするよりほかはない。少なくとも実作がなければそれ以上先へ進めない。
小節の加筆と手直しをした。文章というのは生き物で、こちらをかえればあちらがかわる。或る意味がかわれば別の部分が他の意味合いをもつようになる。
『新明解国語辞典』を座右に置くのが愉しい。或る言葉の説明は他の或る文脈に組み入れられることで真価を発揮する。
冒険家は、冒険中、一瞬の判断をしなければならない。判断次第では命を落とすことになる。そしてその判断や行為のための学習と習熟も、冒険の中でしなければならない。……実践と学びが同一軸上で行われている。それぞれが歯車のように絡み合い、冒険の時間を構成している。
人間の脳はコンピュータみたいなもので、死ぬときはパソコンのフリーズのような状態になるのかなとおもう。
生物学に興味がある。昔から生物(学)の話は好きだった。生物というのはとんでもない。とんでもない。
人間は常に時間をつくりだしている。ここにタイム・イズ・マネーの等式を置こう。人間はつねにカネをうみだしている。
カネの発明によって「おちついた生」が可能となったのだろう。
願わくば万巻の書を読み、読み、読み、反古を書き散らし暮らしたい。
ナメクジの通ったあとのようなてらてらした銀色の道。
夢の書物。物語のための描写の合間あいまに、注釈か独りごとのように文言が入って、延々とつづいてゆく。
永遠。永遠につづく廊下。はてしない。いつまでも歩いていける。掃除はたいへんそうだ。雑巾でどこまでも拭いていかなければいけない。
夢の書物。本当に偶然の思い付きの、一瞬の存在のアイデアを、半永久的に言葉に定着させる。
半永久的。いまのところとりたてて滅ぶ理由がみあたらないこと。
読書にも、書物にもノイズやゆらぎがいるのだとおもうが、それを具体的に反映するためには、従来の文学技法や気の使い方では十分でないきがする。もっとメタな、同時に実践的なアプローチが、読者が住める本をつくるために必要だろう。
二冊も三冊も書く必要はないかもしれない。一冊であらゆる需要に応えられるかもしれない。
各文字(ひと文字ひと文字)を、各単語(一単語一単語)を、インテリアとかなにかのようにみて、あつかうこと。単なる移動でも、慎重に持ちあげ、置くこと。
夢の文芸に近づけるなら、ある文章から時代を感じさせないこと。
平成生まれからすると、今は十分未来に生きていると思う。
日記を表現する時間軸の長さによって腑分けし、並べなおすこと。時間軸の短いものを日記としてつよく示すこと。
人生で何度か入院していたことがあるが、入院している間は体感時間が長く、退院してからはそれが一瞬であったかのように思われる。癒えている期間というのは人生でも特別な時間だとおもう。なんとなれば生活というのはつねに何らかの意味で病みつづけることでもあるから。
(現代の、日本の)文芸のフィールドとは異なった地点に興味が移行しているようにおもう。あるいは以前からそうだったか。文学におけるメタから、書物におけるメタへ。作者におけるメタは、この日記そのものだ。
Twitterのログをダウンロードし、メモしなおしている。これはいずれ再配列する予定。
時・分・秒。ジ・フン・ビョウ。謎の人物、渺吻慈。こういう中国の古典にたびたび現れるような怪しい名前に惹かれる。
アイデアが形式自体に、コンセプト自体が内容となっている一冊の本を。何年か後の文学フリマに出品したい。
05/17
がっつり農作業をした。畝一つ造るのもたいへんだ。
暑い一日だった。35度くらいあったという。
なにか書くことできもちが落ち着いたり高まったりする。日記を書いているとたいていは落ち着く。
これから暑くなるが、身体が冷たいもの、たとえばアイスコーヒーやアイスクリームなど、を求めるようになるのか。暑いときに摂取する冷たいものは刺激があるしおいしく感じる。しかし冷たいもので身体を冷やしすぎると体調をくずすことになるかもしれない。たとえばガン細胞は温度が低い方がいきいきとするらしい。
いかにチームの中で嫉妬やいがみ合いを抑制するかが大切だとおもう。
人間が母語や外国語をどのように読んでいるのかに興味がある。
学生バンドに入っていたときにジャズ由来の曲を何曲か演ったが、ソロをとる人はアドリブできる人が少なかったのであらかじめ決めたフレーズを練習して本番でも吹いていた。何小節かだけ自分が作譜を任されたこともある。
電子ピアノを思いのままに弾いた。いい心地。
『荘子』は『老子』以上にカオシーな書であろう。コスモスからカオスへとびだした破格のとんでもなさと魅力がある。一方、『易経』はカオスな世界を文字・言葉によっていくつかの形に切り分け、あてはめ、コスモロジーを生み出す書だろう。
『易経』は、カオシーな世界を文字/コトバで切り分け、当てはめ、ふたたび混ぜ合わせ、そのランダムな組み合わせで世界を解釈する書に思います。
『新潮』に掲載されていた間宮改衣『弔いのひ』をざっと読んだ。一種のメタフィクションのような作品で、調べてみると私小説らしい。正確に言えば、私小説にしてメタフィクション、というべきか。
メタ・フィクションというのは定期的に書かれる形態で、書くことについて考えるべき衝動が生まれたとき、その思索の場として創作される。
05/16
アクシデントがありつつも、無事な一日だった。
ジンジャーエールを飲んだ。おいしい。
『2666』の五部を読み返した。忘れていた細部が立ち現れてきた。
あるていどの経験を積んだ作家は、集大成としての巨大な作品を創り出そうとするものらしい。しばしばそれはライフ・ワークと呼ばれる。
『暁の寺』を読んでいる。
「『豊饒の海』 創作ノート」で検索すると何番目かに自分の書いた記事が出る。
出来事の連続をひとつなぎに見ていくか、別々に反応していくか。持続と分節……。
現代という時代は何らかの過渡期だと思っているが、世の中や思潮がどうなっていくのか、観測が愉しみだ。
東浩紀さんがよく雑談配信をするので流してみている。
哲学者の国際的な討論会というのはないのだろうか。日本では聞かない。
歴史があるということは、ぞんぶんに時間をつかって、その問題が深められ、それとともにその地位が高められてきたということだから、歴史のあるコンテンツというのは豊かなものをもっていておもしろい。たとえば美術など。
よく聞く話。言語は一次元なのだろうか。絵画は二次元。建築は三次元。ドラえもんは四次元。では言語で四次元に到達するにはどうすれば。一次元の言語でもって二次元を侵食する。次に三次元を。最後に四次元。
四次元はどんなところなのだろう。
『Der Mann ohne Eigenschaften』を読んだあと、『1Q84』。この二つの作品にはいくつかの共通点がある。その一つが主人公の造形だ。この先、どうなろうか決めかねている30代。
ひと昔前は作家が死んだら日記や創作ノートが研究者によって調べられた。いまはパソコン全盛期だから、そういう文献を用いた研究が危機にあるという。だが、現代の作家は多くが職業作家、プロフェッショナルだ。だから自分の死後に遺しておきたい創作系のデータをプリントアウトして、誰かに託しておけばいい。文豪の時代は終わり、また別の書き手の時代がやってくる。作家は独りではなくなる。
「溜飲が下がる」とは「くやしみがなくなり、すっきりする」というような意味だと理解しているが、どういう状態なのだろう。喉にたまった液体を飲み干すところか。
二月から日記として書き溜めた文章。ざっとかぞえたら、2月が20000字、3月が16000字、4月が20000字、現在5月が16000字で、合計72000字以上となる。これはだらだら読むにはうんざりするほど長い量だ。おおいに時間つぶしにはなるが。この前、小説の新人賞の文字数を調べたら、だいたい原稿用紙70~150枚くらいだった。これは文字数にして28000~60000字に相当する。つまり2月からの日記を編集して書き直せば、新人賞に応募できるくらいの大きさの小説になるということである。私はすでにある成果をおざなりにして一からあらためて進めていかなくてはならないことがけっこう大嫌いなので、ちょっと本気で今までの日記を書き直してみたくもなってしまう。だが賞レースではなく、ただ単に趣味として小説にしてしまうのはどうだろう。季刊アープラか、来年の同人誌に載せることができればうれしい。こういうとき、なんらかのサークルにゆるくかかわっているのはお得だし幸いなことだと思う。自分のものしたものがどこかに所属し、掲載される安心感と喜び。こつこつ書くかいがあるというものだ。
自己言及的な日記文学はどうなのだろうと思うた。日記とは事故言及的なものなのであるが。その日にあったことに言及する。自分が生きている時間とは一種の自己にほかならない。
哲学・哲学者はよく誤解される・されているというが、その誤解のされかたをまとめたら面白いのではないか。読み物として愉快だし、後世の役にも立つだろう。題して『誤解辞典』。この辞典はいろいろな本にあたってまとめるだけでできるから、つくりかたも一定で、書きやすいだろう。
現代日本語の修辞法・レトリック・文章技術・表現技法をまとめた本はないか。ないなら、身近なところからまとめるのもおもしろい。たとえばこうして書いている文章を読み直して、どうしてこう書いてあるのかを考察してみる。不如意に書かれた文のいまのかたちの理由をさぐれば、おのずと現代日本語がみえてくる。というのも、われわれひとりひとりが、現代日本語の代表的な話者なので……。
単純に記号操作的な方法のみで、ある文章群を統一させられないだろうか。たとえば、「ひとつも句読点をつかわない」といったような。……そこには一見して記述上のテクニックだけがある。だが、それは限りなく数学や哲学に近いとおもう。つまり記述の操作も思考のひとつなのだ。プログラミングも、そのようなものなのだろうか。まったくの門外漢だからまったくわからない。
言葉がものになり、文字がものになり、文章がものになり、概念がものになり、書物がものになるところ。その間。そのあわい。
十年以上、海に行っていないきがする。そろそろ解禁していってみたい。だれも禁じていないのだが。
ミニカホンを叩く日々が在る。
05/15
ファンキーにいこう。とにかくファンキー!
落ち着いた一日。
暖かくなってきたので、活発になっていきたい。
タイコを叩くのは愉しい。
そのうち時間ができたら、小説をこつこつ書いて、新人向けの文学賞にでも投稿してみようか。そうすると趣味がひとつふえることになる。
日記を書いていると、といって、キーボードでうちこんだものを公開しているわけだが、文章を書くことに慣れ親しめ、余計な執着がなくなっていく。つまり何かしら文章を書きやすくなっていく。
友達は猫をあやすのが巧く、しっぽのつけ根をぺんぺん叩くことで猫に快楽をもたらしている。猫はじっとうごかず、快楽に身をゆだねている。
小説を新たに書き始めた。どうなることやら。
『2666』を少し読んだ。この作品を読むことが日常の一部になっている。
長い間あってなかった友達と道ですれちがった。すれちがいざまに挨拶しただけだが、元気そうでよかった。
05/14
15年ほどかよっていた病院をかえることになった。長いものだ。
昼間は暑いぐらいだったが、午後から風が吹いてきて曇りだした。寒いくらいだ。
最近は、通読しない、ページを最初から順番に読まない読書をしている。つまみ読み、部分精読、開いたところを朗読。本はどこから読んでもどこで読み終わってもいいもの。
入浴中、ビジネスになりそうなことを思いつく。単にイメージだけだけれども。
いまは経済的にも国際的にも閉塞の時代だが、これから自由な時代が、世界に乗り出していける躍動する時代がやってきそうだ。
優れたクリエイターには、優れたプロデューサー、優れたスタッフがついていなくてはならない。
『Musil Tagebücher』の一節を訳してみたが、うまく像を結ばなかった。
電子ピアノ、ベースをいじった。ベースは、少し触っただけでも奥が深い楽器だということがわかる。
愛用のウッドカホンをさわり、短い動画を撮った。そのあとも少しさわっていたが、形状が似ているしパンディロ(パンデイロ)のような奏法ができるんじゃないかとパンディロの演奏動画を検索した。手の付け根と人差し指・中指・薬指と親指を打点にして手首を軸に叩いていくのだが、けっこう楽しい。フレーズができてくればしめたものだ。歌うように叩いてみたい。
05/13
久々にボイスチャットで話した。素晴らしい。
社会の気運を知る機会があった。
ジョルジュ・ペレックの『人生使用法』は、それ一冊あればいつまでも読みふけっていられるたぐいの本。さまざまな人生が切り取られている。本文は日本語で二段組550ページほどあり、どこをひろげてもよい。24×21×2×555=559940文字弱。
アントナン・アルトーの『カイエ』(アルトー・コレクションⅢ、月曜社)を読む。アルトーはこれを精神病院に入院しながら書いたようだ。アルトーのテクストはすさまじい、それに加え狂気を感じる、そしてそれはわれわれにも「理解できる」。だから恐ろしく素晴らしいのだ。理解しきれないはずのことを理解できるという経験、その不思議。創造的な言葉の使いこなし。稲妻のような彼の言葉と思念にはなにがよぎっていたのだろうか。どんな亀裂が走っていたのだろうか。彼の孤独に向き合い、その創造が生まれるところに立ち合いたい。
世界文学には大作がぞくぞくと登場しているようで、『ソレノイド』、『シャッテンフロー』などが話題だ。
寝る前に『The Alexandria Quartet』を開く。
05/12
いろいろと忙しい、充実したいい一日だった。
貴重な話をきけた。またひとつ勉強になった。
歯医者に行った。これからじっくり治療していく。
『新明解国語辞典 第八版』を購入した。各項目の記述がニュアンスをよく書き表していておもしろい。巻末の活用表などをみていたら、「言語としての日本語」がつよく意識された。
思い切って手放すことで、得られることもあるだろう。わずかだとしても。
何事であれ、自暴自棄になる必要はないかもしれない。そこにスリルがあるにせよ。
05/11
明治維新と敗戦によって、日本語は大きく変貌をとげ、現代日本語となった。古語との間に差異が生まれ、古典の新たな読み方・読まれ方が生まれた。その変容と仕組みを追ってみたいが、私の手にはあまる。
王が交代する。胡散さんの活躍は素晴らしかった。お疲れさまでした。次はだれになるのか、予想がつかない。楽しみだ。
驚愕の事実が判明した。しかし大したことはない。
去年メフィスト賞をとった小説は何重にも入れ子構造が仕組まれた長編らしい。しかも著者は若いという。すごい人もいるものだ。
持っている本の選別をしてもいいかもしれない。
『エクセレント・カンパニー』を読む。550ページ程度のビジネス書で、ビジネスについての考え方が書かれていておもしろい。
或る文章の中に同じ語をいれることは是か非か。場合によるだろう。
人と、ハローワークの資料で盛り上がった。いろいろな仕事があり、いろいろな募集がある。
昔は、すぐ売り切れそうなあたらしい本だったりちょっと値が下がった古本だったりを急いで買っていたが、いずれ手に入るようにならない本はないので、気長にかまえておけばいいのかもしれない。
千葉にはクマが出ない。耳の大きい黒ネズミはいる。
ウィリアム・ギャディスの『JR』を読んでみたい。
ビジネス書にせよ文芸書にせよ、いろいろなことこまかなことが滔々と書いてある本はおもしろい。
私は、「おもしろい」という言葉を非常によくつかう。おもしろいことは好きである。往々にして、つまらないこともおもしろいことに転じたりするからおもしろい。
要約もいいが、展開もいいものだ。ある一つの文を展開させて一つの章にしてしまえばいい。
書いている小説を置いてみている。どうなるのか。
ネットで知っている人の作品は出るたびに刺激になる。刺激なきところにはなにも生まれないので、いつも新作を待っているところがある。直近は少なめかもしれない。どんな作品であろうと、出れば読んだり聴いたりして、なんらかの影響を受ける。時には自分の創作の原動力になる。
私の場合、あるていど自在に素早くつかいこなせないと言葉の快楽は生まれない。まだ拙い外国語の使用ではあまり快楽が起きない。しかし上達するためには苦労して修練しなくてはいけない。億劫だが必要である。
創作でも、実践でも、生活でつちかった感覚を生かせるジャンルなら合理的なのだが。そんなに文芸的な生活をしていないけれども小説を書いたりなどしている。音楽にかこまれた人生ではないが楽器をいじっている。まあ、いいじゃないか、ええじゃないか。
アープラの管理人が変わって、おもしろい変更が多く加えられた。ひさしぶりのことなので、ワクワク感がある。自分が管理に関わっていたころを思い出した。
05/10
遅めに起床。遅めの朝食。量はいつもより多め。
或る一つの言葉が、なんらかの意味や文脈を隠している。言葉のつらなりには、いくつもの意味や文脈が内包されている。
形式化してあるところと、形式化していないところの中間で、小説は書かれるものだとおもう。
紙の書物が絶滅する可能性についても、少し考えていた方がいいとおもう。
とりあえず、『まだら牛の祭り』の新たなアマゾン・ペーパーバック版の準備をしていた。作業はスムーズに進み、近々に出版できそうだ。
休日は作業がはかどる。
紙のノートに何か書くのは疾走に似ている。いちど走り出したら書ききるまで止まれない。
カフカは自分の心を極端に描きつづけて別の世界をつくりだしてしまった稀有な男だ。
そろそろ日本に新たな哲学者が現れないだろうか。アープラなどはその出所として期待がもてると思われる。
ライトノベルといっても多種多様であり、まだ十分に研究されていないのではないかと思われる。少なくとも、ライトノベルの歴史を上手くまとめた名著は知らない。
或る執筆作業中に何か行為が発生し、その行為の記述が内容になる。
矛盾の感触を表現できないだろうか。
ムージルの日記を訳した。
「私はかつてヴァレリーに寄せて書いた。満足に。日々の思索全体から際立って芽生えを感じたものを。マラルメのように、しかし明澄に――芸術をとりまく感覚的な神秘について。
この手記はこれまでのところまだそのレベルでは一行も書かれていない。」
ムージルの書き手として目指すものと変化の波が伝わってくる。
詩を書いた。アープラに発表した。作るときはぽっと浮かんでくる。
思ったより早く『まだら牛の祭り ver2』が発売された。発売されるにはチェックを通らなくてはならないのだが、それが早かった。
言語と思考。
落ち着いた生活をしているときのほうが、へんなふうな人格になっている可能性もある。
現代人の生存がみな言葉によって支配されていたとしたらどうだろう。それが証明されたとしたら。しかし考えてみれば「そりゃそう」なのでそうだとしても驚くにはあたらないかもしれない。
学問的な知。学問は知の体系なのでいくぶん循環している語の使用だが、私はこれが弱い。あるいは強く存在しない。なので難しい本を読んで理解したとしても再び再構成して説明することができるかおぼつかない。
5月の日記は分量が多くなりそうだ。なぜかはわからない。
ハンス・ブレーメンベルクの『世界の読解可能性』を読んでいる。おもしろい。19章でフローベールとマラルメを論じている。ブレーメンベルクはメタファー学……たとえば「世界という書物」あるいは「書物としての世界」というようなメタファー概念を扱う人である。『世界の読解可能性』は「世界を書物として読む」営みを巡る言語・観点を歴史的に通覧していく著作。
05/09
一日、農作業に従事した。農作業はおもしろい。
思わぬ出会いがあった。
農機具を見て回った。便利な道具・機械がたくさん作られている。奥が深い。
長距離を移動するのは愉しい。見慣れた道と見慣れない道が混在していると特に。
出先にもちあるいたのは、『The Avignon Quintet』。官能的な場面も多い。直截な性描写といったほうがいいか。『アレクサンドリア四重奏』とはまた違った事物の描き方がなされているようだ。
「見出しが細部に、細部が見出しになっている」という考えに熱中している。読み方もそうなっている。ボルヘスのようかもしれない。
人間の残酷さとは、はっきりした形を持たない。それが招来される場に応じて現れ方を変える。あるいはそれはそれとして発言する前は残酷さとは呼ばれていなかったものかもしれない。
貰ったヤーコンという根菜を食べた。生にショウガ醤油で食すと美味。
うどんはどれくらいもつのだろうか。
英語辞書が欲しい。
心のうごきはとりとめがない。
お役所仕事につきあうのは面倒くさい。形式趣味が過ぎて馬鹿馬鹿しい。独特の形態だから、おもしろいことは確かかもしれない。
自転車をこぐと気持ちがいい。
前借りを返すのは当然のことだが大変なことだ。
そういえば、自分には日本語を辞書で引く習慣がないことに気づいた。そのせいか、外国語も辞書をあまり引かずすませてしまう。日本語の意味やニュアンスや活用は、読書で覚えた語が多い。習慣づけのためにも、日本語の辞書のひとつでも持っていたほうがいいか。
これからどこに転居になって持ち物を手放すことになるかもわからないので、これだけは手放さないという本と持ち物を決めておいたほうがいいかもしれない。それさえあればほかに何もいらないというもの。「無人島に持っていくなら」という問いと似ている。あれよりも切実かもわからないが。
もう知ってるつもりの単語、読みなれている単語を辞書で改めて調べて確認するのは愉しい。メジャーな発音、知らなかった使い方、足りなかった理解がより洗練されたものになる。ひそかな愉しみになりそうだ。
百科事典もほしい。
ペーパーバックをパラパラめくりながらノートに日本語訳を書き連ねていくのはどうだろうか。やってみようかしらん。メモが残った方があとでおもしろい。とんでもない誤訳も含めて。
子供のころから莫大な大金持ちになったり超人的な力を手に入れたりする妄想が好きなのだが、そのせいか現実の自分のトホホ要素にはあまり気にしない傾向がある。上には上、高みには高みがあることを勘づいているから、現状の不足感や不充足感を重要視しない、あるいは等閑視する。これはムージルの「可能性感覚」というもの近いだろうか。現実とありえたかもしれない現実とを同等にみること。できれば、それによってどちらかを疎かにしないこと。
全然ないと思われていることでも全然あるから世の中はおそろしい。
「美意識が強い」という言い方は聞くが、「美意識が弱い」とは聞かない。
表情の微妙さは、実感としての感情の微妙さと必ずしも一致しないだろう。そこで、その差と内実を表現する言葉の存在が現れてくる。
固有名詞があると紐づけに役立つ。
05/08
今後の話をした。なかなかおもしろい。
計画は初歩としては順調。
ドン・デリーロやジェイムズ・エルロイ、ピンチョンについて調べた。前も調べたような気がする。なんにせよ、現代の闇を扱った大長編を書いている作家たちなので、読み応えがありそうだ。ポスト・モダンの巨匠たち。
書籍を出版するというのは、簡単なことではない。
細部の記述が、同時に見出しになっているような読み物。江戸時代の書物は、これを地でいっている。「〇〇といえば」が、同時にあるものの説明になっている。これを達成すれば、少なくとも日本語としては、特に文芸なら、言うことのない本となる。
中古屋で、エレキベースが安かったので買った。理由は、夜でも弾けるから。いままではアコースティック・ギターとミニカホンと電子ピアノをプレイしていて、電子ピアノ以外はなにぶん音が生なので、夜には弾きにくかった。エレキベースなら、アンプなどにつながなければほとんど音が出ない。もちろん、弾いている間、小さすぎて低音が聞き取れないかもしれないが。
キーボードで文字を打つ快楽。仕事でもそうだが、打鍵しているときがいちばん愉しい。行為と思考と記録が一緒になっている感覚がする。多くの要素が調和して、意識が前向きになる。
私家版、同人誌の魅力。ZINEも買ったり読んだり作ったり売ったりとおもしろそうだ。
文化的な最低限度の生活を享受できていれば、それでよい。
思いつくままにメモを拡げていくと、思考がどのように生まれ、語られるかがわかる。
ポツポツ、しゅわしゅわ、ムクムク、カチカチ。さまざまな要素のうまれとつながり。
日本語で哲学する(思索する)ことは可能だろう。ただ外国語で考えたことを日本語で表現するのでは、そこにハマらないものが見られることだろう。それをうまい具合にヤスリにかけて、磨いていくことは、有意義だと思う。
私は学がないので、或る体系的な哲学や思想といったものを時間をかけて把握したことがない。(それが学問というものだとも思う。)強いて言えば、文章芸術が好きだったので、或る言語で創られた構造体を把握し、咀嚼することはしてきた。それによって得られたのは、散文の磨き方や、魅力的な物語の生成方法ではなく、結局、或る言語の体系なのであろうと思っている。35年くらい文学をやって、得られたのはそういうものだ。文学ではなく、もっと別のもの。それを言語の体系として表現できれば、思考のブラックボックスあるいはモノリスのような多面体、細部が内部と全体を複雑に指向しあう構造体が達成されるだろう。もうそれは少しずつ達成されている。
生活も大事だし、そこから零れ落ちるはずのものも大事だ。
配列と記述。まだ世界(現実および虚構)でも極められていない。
翻訳を読むということは、奇跡を信じていることに通じるのではないか。本来達することができないはずの二つのものが、共鳴し合うということへの期待。
少しずつでも、何かから何かへ翻訳をしていくことが大切だ。それは同一の体系にみえるもの、たとえば日本語の中でも行われている。
涼しいクーラーの風で書いている。
読みたい本:ドン・デリーロ『アンダーワールド』、ジェイムズ・エルロイ『四部作』ピンチョン『重力の虹』
ポスト・モダンというくらいだから、読み手によって得るものがちがうような書物でなければならない。
日本語は曖昧なのではなく、独自のテーゼをつくることができる言語なのだ。論理性を疑う場合、それをテーゼとして読めていないだけだ。
今後十数年の個人史の展望。こんご10年は、こつこつぽつぽつ労働に専念するきがする。そして、人と会ったり出かけたりが増えていくだろう。とりあえず人生のひとつの場面がおわったので、あたらしい展開にうつっていく。そのうち、その生活の流れが止まり、分岐し、ほかの流れになってゆく。そのとき、また異なった出来事がおこるだろう。
NHKの社会問題を扱った番組を観ていると落ちつく。
若い人に聡明な人が増えている。過去の人がとくべつ聡明でなかったわけではないけれども。もし若い人に傷つきやすい人が増えているなら、守られるべきだろう。そう言っているわれわれの世代も、いくぶん傷つきやすいゆとりある性格をもっていがちかもしれない。
長い文章を書きたいという欲望が湧く。それはひとつの小説でもいいし、雑多なエッセイの集積でもいい。その両方を兼ねているものだったら言うことはない。そのための模範としては日本ではメガ・ノヴェル『1Q84』がある。逆に言えばそれほど日本にはない、刊行された著者の書きたいことが書かれた思弁的で長大な書物というのは。わずかに近年、『魚の夢』が奇跡のように世の中に躍り出た。これらの書物を読んで私の文体筋肉・文体脳は成長していく。まあプロティンみたいなものだ。そして海外では、さまざまなメガ・ノヴェルやメガ・エセーが量産されている。これらをも存分に吸収して、私の文体が形成されてゆく。文体とは、雑多な支離滅裂な八方破れの断片を関連づけ・結びつけ・ひっぱり束ねる力、もしくは力の流れである。すでにもうこの日記さえひとつの文体に支配されている。この文章を書くことで我が文体筋肉・文体脳が鍛えられ、育成されていく。この成長のくりかえしは私が生きている限りつづく。端的にいえば、私の感覚としては、一生涯なにかを書いていくしかないということだ。
いま書いている小説の、二章が終わった。どうなるか段取りがつかない。筆の進むままに書いているので、わからない。
マリアーナ・エンリケスの『秘儀』はおもしろそうだ。
いきづまりからつきつめていく文学というものは書けないだろうか。ありえるだろうか。それもベケットのように肉体的・精神的ないきづまりをなぞっていくのではなく、調和(ハーモニー)的な諧調(キー)的な実践理論的ないきづまりから出発して常ににらめっこしていくような。
記述によって意味が生成されていくのではなく、意味が裁断されて意味を刻んでいく。
DOMMUNEでいとうせいこうさんとパーカッションの方がコラボ・パフォーマンスをされていた。すばらしい。
私のエクリチュールは、横隔膜の振動あるいは痙攣みたいなものだ。
翻訳は、原文により精密なニュアンスを持たせることができるから、高度であればあるほど論点は文芸化する。
或る文章の意味とは、尻尾を噛んだ蛇のようだ。しばしば反対の意味に接着する。
長い洋書が一冊あれば、いくらでも暇つぶしができる。
『The Avignon Quintet』。その文体はパズルのようにも、抒情詩のようにもみえる。おもしろく美しい。
05/07
反応があった。嬉しい。
文芸の世界も奥深いものだ。
100年先も書物はあるだろう。
中也の「道化の臨終」という詩がいい。詩か物語が生まれる前の、ぞわっとした気配を表せている。
いろいろな約束をした日だった。
しらけて、むっつり、してしまっては、ほとほと、ことばも、ございません。
なにごとにも正確な記述というものはない。それなりに書けばよい。
05/06
言葉の曖昧さが関心の焦点になってきた。曖昧さを衝くのが主な目的になってきた。
四六駢儷体という文章の形式がある。
現代の不良とはどんな人たちだろうか。オーバードーズなどの「危険な遊び」に手を出してハマっているのかもしれないが、ぜひ内側に閉じた遊びだけでなく世界とかかわりのある遊びを身に着けて青春を満喫してほしい。などと訓示。
クラウドファンディングの準備をしている。再提出。初めてのこととて手探りである。
『まだら牛の祭り』の改稿版は、もうほとんど完成したが、クラウドファンディングで資金を募って同人誌として印刷するか、もしくはどこかの出版社から単行本の形で出版することにした。すでにいくつかの出版社に連絡をしている。いま販売しているヴァージョンは、流れによっては販売終了になるかもしれない。
ゲームに負けつづけて人生に勝つ。
海外の映画なんかによくある場面で、モダンなキッチンの台に、コップやグラスを置くときに響くカタン、ガタン、という空虚な音がたまらない。
ホワイトヘッドが哲学は全てプラトンの注釈に過ぎないと書いたそうだが、これは引用でしか知らない。さて、プラトンの注釈のうちには、プラトンが決して考えたことも思ったこともなかったこともあり、またプラトンの著作にすら片鱗も見受けられないことどももあるだろう。われわれはほんの僅かな原典、古典に託して莫大な量の注釈を生産している。いまのところの人類とはそういう営みの中の存在だ。
エックス、あるいはツイッターからログを受け取り、少しずつテキストファイルに移している。やがて一冊の書物となるべき文章群のためにだ。私にとっての「なんちゃって」パンセ、エセー、もしくはカイエとなるために。
とにかく読んで書いて読むしかない。文学のためにも哲学のためにも。誰しもそうだ。
日常の通常の行為の中に、積み重ねによって培われた確かな技術がある。
29×23×2×842。ボラーニョの『2666』の日本語版の凡その文字数だ。1123228文字。百十二万三千二百二十八文字。『1Q84』『魚の夢』といい、どうしたらこんな大量の文字が書けるのだろう。現代小説はこのまま超巨大になっていくのだろうか。それとも、ふたたび近代のような適度な市民的な分量を取り戻すのだろうか。いちど外れた箍はもう元には戻らない。再び装置を作り直すまでだ。
プルーストと文字数で勝負したい。目指せ計500万文字の書籍。しかし小説に限らないならそんな本(もしくはシリーズ)は存在するだろう。
少し前、まだ若いころ、ネット小説の黎明時代が確かにあった。あらゆるタイプのネット小説の可能性が花開いていた。疾風のように過ぎて、吟味する暇さえなかったが、果たしてあの時代はなんであったのか、何かを確かに遺したはずだ。
フリーゲームの時代もあった。私がプレイしたのはツクール、ウディタなどだ。ツクールは2000、2003、XP、VXなどだった。輝かしく、懐かしい時代。
私の書籍は10年後もしくは20年後に一旦完成させたい。そのあとじっくりと改訂をくりかえしていく。
短い、薄い、軽い書物ばかりが多すぎる。本が読まれない時代といえど、ここはあえて重厚長大な本をどんどん書くべきだ。いつインターネットが終了してしまうかもわからないのだし。終了してしまうのだとすれば、こうして恩恵を受けている状況は貴重な時となる。
全ての記述をある一つの方向ではなく、無数の方向に向けて拡散させること。そうして書かれた本は何処から読んでも愉しい書物となる。
結局、自分の書いた書物とは自分が読むためにある。出版にこぎつけるために丁寧に面白く書く必要が出てくるだけだ。
いまや、紙の本の出版すら元手がかからず、行うのは易しい。一人一冊、人生の書を執筆する気運が高まっている。
私の本が売れないのは半分嬉しい。大事に本を読む人が多いことを暗に示しているからだ。私の本はまだ適切な身体を手に入れていない。いまはまだ、テクストにとって雌伏の時である。
分類と配列。これに力をいれること。
その本がどんな本なのかをその本の内部が証明する。その本の中身がそのまま題名を示す。
タイトルもしくは中身は冗談でもよい。そのどちらか一方がその冗談の解説なら。
令和初期のネット発純文学についてどこかで一筆したためようか。もっとも場としてはアープラまわりくらいしかわからないけれども……。書き手としてはリクトーやMMMとあと数人についてぐらいだろうか。だれもまとめていそうな雰囲気がないので、まとめることに意義はあると思われる……。
先進国の少子高齢化は歯止めがきかず進んでいくだろうけれども、まだ人口が増加している国々はあるので、文明文化のなんらかの発展はまだあるように思われる。すると、その中に文学の位置もまだあると思われる。だとすれば、文芸ならびに純文学のありようも、まだ問われるべきとして然りではないか。
『ブギーポップは笑わない』というライトノベルの古典をほんの少し読んだ。青春の温度と、平成の独特の時代の空気が感じられるようなきがした。
本を出版するのにもさまざまな方法・過程があり、勉強になる。
とはいえいかにおもしろい本であろうと欠点はあり、それはその本の内容しか中に書いていないことだ。あるいはボルヘスの書物はこのパラドックスに肉薄した。
有名な、高尚な本に言及し、それなりのネットワークにログインする。
なぜひとつのテーマに沿って書かなくてはならないのか。いかに自由な小説であれこの軛から逃れるのは難しい。
読みたい本。シオラン。ペソア。キルケゴール。寺田寅彦。分量のあるエッセイや思索ノート。
『エセー』を読んでいる。
「〇〇を読んでいる」という記述だけで、文学は成り立つ。それだけで、人は孤独ではない。
「無限の中にあって、人間とは何か。」パスカル。
「遊学公式チャンネル」をBGMにしている。かなり知的な会話。
Amazonの「ほしい物リスト」を更新して、Twitterで宣伝した。恐らく日本でもかなりの底辺収入で暮らしているので、罰は当たらないだろう。欲しいのは書籍ばかりである。
『豊饒の海』四巻を軽く見返した。相変わらず、心ざわつく物語だ。とくに第四巻『天人五衰』にいたるとどうしてだか独特の気分になる。退廃的というか、荒廃した、しかし神々しい、変な涅槃のような境地がそこに現出している。生なましい。恐ろしい書だ。この作品に比べると、ほかのどんな本も快く、やさしいものだ。海外にもこういうものは見つからない。読むたびに、底知れない渇きを感じる。意志的な自決寸前の人間の実存が吐露されているので、その死への志向が伝わってくるのだろうか。しばしば文学にはこういう地雷地帯のような危険さがある。明らかに生ではなく死、豊饒ではなく破滅と虚無へ急速に向かっていく精神と出っくわしてしまうことがありえるのだ。
宇宙を流れるタオを知り、その流れに生きるものは、人間以外にもありえるし、いるだろう。種族によっては、ヌシのようなものかもしれないが。同一の宇宙にいるかぎり、共通のタオの流れの中に生きているはずだ。
05/05
ゴールデンウィークだが、変わらず、むしろ忙しく営業中。
仕事はかなり順調である。慣れてきた、というよりノッてきた。
英作文をノートに書いていた。辞書を引きながら。
映画『ゆきてかへらぬ』を観た。
クラウドファンディングがチェックされ、アドバイスを受けた。
出先に『Robert Musil Tagebucher』を持っていった。ムージルの日記。
Googlelensをとおすと、外国語の文章も日本語に変換できる。
ユーモアの韜晦につつんでいるものの、ポール・オースターにとっても、「名の間違い」のテーマは放っておくことのできないものだったと思われる。
不在や欠乏の間にイデアは宿る。
九星という占いの体系があるのだが、それによると、今年の私は最低運らしい。
インスタントコーヒーを淹れる動作に幸福を覚える。
令和8年(2026年現在)のAIは、外部から情報をもたらされないと世界を把握できない。AIが感覚器官と感覚頭脳を得たとき、飛躍的な転換が始まるだろう。なお、人間の知能の成り立ちとAIのそれの成り立ちの違いは、両者のありかたになんらかの違いを生み出すかもしれない。
考える人たちのうちの一部は、思考が一定の型に沿って存在すると考える。また別の一部は、思考が言葉に沿って流動する電流のようなものだと考える。
『ゲーデル、エッシャー、バッハ』に倣って、『ムージル、ハニヤ、セルバンテス』なる書をものしてみようか。
長大な本が好きだ。これは幼少の頃からの慣習による。
作家の大長編小説を書くエネルギーには圧倒される。そこに何か宝があるのではないかと誘われてしまう。
05/04
にぎわいがあった。
Campfireのプロジェクトを準備している。本の出版に費用が要るため。
印刷所・出版社をあれこれ見ている。
スペイン語近辺についてWikipediaサーフィンしていた。魅力的な言語圏だ。
そういえば最近サッカーをみていない。父が好きだった。機会があったらみたい。
小説の推敲をしていた。
「セルバンテス文化センター」に遊びに行ってみようかと考えたが、少し遠い。
''Don Quijote''の冒頭だけ読んでいる。
紙のノートに言葉を書き写して学ぶなどしている。パソコンに打ち込むのと、どちらが覚えがいいか。私の世代だとどっこいどっこいかもしくは、紙のほうがいいだろう。
言葉は文字の固有性があるからこそ代替可能であり、その活動は絶え間ない代謝なのだと考える。
少しずつ勉強しようと予定を立てれば、根を詰めすぎない。一夜漬けが多かった学生のころにはできなかった方法だ。
私なりの、「カイエ」を書いていきたい。
山田玲司の『非属の才能』。文章のつながりが巧みで良い。
寝る前に、ムージルの日記に目を向ける。
05/03
電車で遠出をして、スタバでのんびり。ラテがおいしい。店内が、落ち着く色味だ。
泉鏡花は「で」をよく文末に使う。使うので。文末・語尾に着目して小説を読んでみるというのはどうだろう。きっとおもしろい。
少しずつ成長するために、少しずつ続けていく。
とらえることの難しいものをとらえるのが文芸か。 だからこんな曖昧なジャンルが隆盛しているのか。 などと考える。
『中原中也全詩集』を購入。以前もっていて一旦てばなした本。ぱらぱら読んでいるうちに、昔を思い出した。「詩人」に出逢ったのは、中也が最初だったとおもう。十年以上前に買い求めて、殆ど出ていない講義に持って行った……。彼の肩書は抒情詩人で、彼の詩の思想的分析は、まだ十分になされていない。こういうときは、一節でも引用したほうがおそらくいいので、ひとつ。「最も純粋に意地悪い奴。(略)問題となるのは技巧だけです。内容は技巧以前のものです。技巧を考慮する男は屹度価値ある内容を持つてゐます。」……私は技巧にもいろいろな価値があるだろうとおもう。
生きる手立てというか、生きる証というか、文芸に身を置く人もさまざまだ。いつ身をゆだねることになるかもわからない。不思議なものだ。私の書いたものも、私の書いたぶんだけは意味と価値があるので、その有意性に託そう。
中年男性がなぐさみに語学や文学をやっているだけの日記だが、やっている身としてはおもしろい。
小説家になろうで古い友人の作品を見返していたら、かつての感覚がにわかに戻ってきた。
ニュアンスは副詞に宿る。
『まだら牛の祭り』の改稿と修正がだいぶ進んだ。近いうちになんらかのかたちで日の目を見せられそうである。完成度は確実に高くなっていて、初稿のあらあらしい部分は丸くなっているものの、作品としてはよりまとまっている。
05/02
いま書いている小説についてのへんなアイデアが思いついた。
過去のノートを探して集めていたら、昔一回だけ出席した講義で使ったスペイン語のテキストブックが見つかった。朝日出版社の、『¡Hola! ¿Qué tal?』という本だ。もう無いと思っていたので驚いた。有効に使っていこう。ノートは大量に見つかった。
外国語で物語や小説を読むと、否が応でも読もうと思えば翻訳した文章が浮かんでくるので、その作品に直面することになる。すると新たな体験と学習ができる。
人と中国について話をした。日本と関係が古来より深く、おもしろいところである。
皮肉げな、実はなにかしらに一言ありそうな語り。
阿部和重について調べた。おもしろそうな小説家だ。伊坂幸太郎との共著もあった。
去年いくつか購入した『新潮』をパラパラめくる。気づいたが、現代小説が多かった。いまの社会を切り取った文章が多い。芥川龍之介のような歴史小説は見当たらないないし少なかった。いくつかあった評論は、近代くらいのものごとをあつかうことも多かった。誌名が『新潮』なので、それらしくなっているのかもしれない。現代日本語の散文を読むと、励みになるし、刺激になる。同時代的共鳴。2025年10月号の、松家仁之氏の田川建三さん追悼文「厳しさと寛容と」が背筋が引き締まる思いがし、良かった。辞書と聖書を傍らに、ノートパソコンで執筆し、エプロンをつけて料理の合間にも書いていたらしい。学者の鑑だ。
最新の現代小説、とくに平成後期から令和にかけての小説の文体には、間延びというか、おっとりというかのっぺりというかやわらかい餅のようなものが入りこんできていると思う。昭和後期から平成前期にはあまり見られなかった要素で、かつてはもっと淡泊でシンプルで殺伐としていた。もしかしたら、次のシンボリカルな時代への準備かもしれない。或る時代の散文は前の時代の散文から産み出され次の時代を胚胎しているのである。
05/01
なんにせよ五月である。
「『ドン・キホーテ』の書き起こし」をやっている。ばらばらに読んでも楽しい作品なので、書き起こしもばらばらの順番でやっていくことにした。
仕事先には『生成の無垢』というニーチェの遺稿集を持って行った。興味深い本だ。
プライベート・プロジェクトに、小説を少し書き写した。
芸術には陰翳が大事だ。
アイスを食べた。今年では初めてだ。
明瞭さを強くしていくと、美しく感じるものになるのだろうか。明瞭さにはどこまでの限界があるのか。
著作権切れの文章を集めてアンソロジーにして、同人誌としてみるのはどうだろう。ひとにおすすめできるものを集めれば、いい本になるはずだ。
フランス語やドイツ語、スペイン語に男性名詞・女性名詞があるのと、よく翻訳小説で「それはそうよ」「それはできないわ」「そうなのかしら」といった言い回しが使われているのは、関連があるのだろうか。
言葉を豊かにしている営みのひとつは、皮肉なことに、悪口や噂話だとおもう。
¿はてな?←スペイン語の記号。
Google翻訳全盛期の時代に語学をやる意味はあるのだろうか。大いにある。Google翻訳より下手に言葉を使いこなしたいときだ。案外バカにならない。立川談志も「下手に演る」をモットーにしていた。これからの文芸は、ヘタクソに書くことが求められることもあるかもしれない。なんせ、もう手書きの言葉よりも打ち込みの言葉のほうが世の中にあふれているんだし……。
思いついたが、同人誌などに出すために書いている小説や文章を、VCで朗読すればいいのか。そうすれば、反応を見ることができるし、歯切れの悪いところが見つかったりして、作品の推敲につながる。
小説を書く腕がなまっている。小説執筆が昔以上に下手になっている。これを逆利用して、変な小説に仕立てるしかない。これは天命だ!
"Don Quijojte"を音読していたら、なんだか言葉の並びがおもしろい箇所があったので、書き出して意味を調べてみた。するとけっこう意味をとるのが難しい。もしやと思ってよく確認したら、たしか翻訳では「ロマンチックすぎてよくわからない騎士道小説の一節」を紹介した部分で、ドン・キホーテが狂った理由を説明するための箇所のようだった。そりゃわかりにくいわけだ。