読んだもの日記(イ)2026年4月
04/30
『ドン・キホーテ』の書き起こしをした。途中からひらがな入力にしてみた。やったことがないので手探りでタイピングした。予測変換を使おう。
ひらがな入力で書いている。
漫画のような小説になれば。
パソコンを身体ともっと近づけられるか。
四月最後の日。
練習。
ローマ字打ちに切り替えて、前篇の第十二章を書き起こし終えた。
毎日『ドン・キホーテ 島村・片上訳』を書き起こしたら、案外に早く終わるかなア。それでも前篇だけで半年、全篇なら一年くらいかかりそうだけども。おそらく島村抱月の演劇経験からきたのだろうが、セリフ回しが味があって愉快なんだよナ。明治~大正の翻訳なのに今もって読みやすいし。喜劇にふさわしい訳。
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の演劇版は、非常に原作の世界観を表しているようだ。ワールドワイドな作品だ。
たまたま生の時間を共有している。楽しもう。
『断腸亭日乗』は読んでみたい。日々のなぐさめとなりそうだ。
今日はドイツで「ワルプルギスの夜」という祭りがあるらしい。
松永延造の話題がXに回ってきた。
現代日本語は過去の遺産と外国語のひろがりに引き伸ばされている。薄口になるのはいたしかたない。問題はそれをどう豊かにするかだ。
三島由紀夫の『荒野より』を漫然と読む。ほれぼれとする批評の手つき。三島由紀夫は、近代日本最強の批評家のひとりだろう。
04/29
かかわっている人が、ツクールでフリゲをつくっていたりしていたことを知った。まさか知っている界隈の人だとは。
スペイン語の辞典が届いた。研究社のものだ。これで学習していこう。
『Don Quijote』が届く。好きな小説なのであらためて楽しみだ。古本で頼んだのだがわりと新しかった。
Charles Dickensの『David Copperfield』が到着。これは時間が経っており、焼けが入った本で、ぜひ音読などをしていきたい。
海外の本には、独特の匂いがある。糊、接着剤の匂いだろうか。
ためしにすこし届いた本を読んでみた。未知の言語なので言葉がぐるぐる回る。
長いこと連絡をとれなかった人と連絡がとれた。
Don Quijoteの朗読をSpotifyで聴く。
いつもとちがうショットでYoutube用の動画をとってみた。
04/28
ラッキーでありアンラッキーな日だった。
全体としては良し!
ジンジャーエールがおいしかった~。
幸田露伴は『水滸伝』も全訳しているようだ。それを読んでみたい。
複数の言語で同じ本を読むのはおもしろいとおもう。
世の中には人知れず消えていく詩人や小説家が星の数ほどいる。文学というのはやくざな営みだ。
絵を描こうかなとすこしおもった。
スペイン語を覚えれば、ラテンアメリカの大作が何本も読めておトクかもしれない。世界文学として比較的新しい分野なので、得るものは大きいだろうし愉しめそうだ。『2666』『世界終末戦争』『夜のみだらな鳥』『百年の孤独』『石蹴り遊び』『伝奇集』……。綺羅星の如き小説たち。スペイン語は将来にも関わってくる。
どうやら、4月は一日たりとも記述を忘れていないようだ。がんばったほうだ。
だいぶ充電したので、アープラでいっちょなにかやるのもいいかもしれない。
いま思いつくことといえば、座談会をしたい。何かテーマをきめて複数人で語り合う。その模様はアーカイブにのこしておく。これが大事だ。下手すればそのうちみんな内容を忘れてしまうかもしれないし。現代人は忘れっぽくなっている。
誰もが参加できるイベントがあれば、参加してみたい。アープラででも、他のところでも。興味があることならだけども。
DOMMUNEを流している。バックに人の話しているのをかけているとはかどる。
長いスパンでの時間をつよく意識するようになった。
言葉のつながりにはは網の目のようなところがある。
雑多な言葉の只中にほんのわずかの目立つ語があればいい。
読者の「目」というのは、いつの時代も常にその時代によって慣らされている。読むということは何らかの傾向の集積である。『2666』の成功も、犯罪小説や探偵小説、エンターテイメント、その他もろもろの隆盛があったればこそ。それらによって『2666』を読む目も養われたのだ。
これらの日記を再構成して、その思考を培養してかたちにすることはできるかもしれない。いいエクササイズになりそうだ。
やがて出す本のタイトルは、『似非エセー』にしよう。昔、同タイトルの短文を書いたことがある。
『通話』と『鼻持ちならないガウチョ』をパラパラと読んだ。
久方ぶりにSoundCloudを利用した。レイアウトがカッコよくなっていた。
東京国立近代美術館の記録のpdfが公開配布されていたのでダウンロードした。分量たっぷりである。記憶・記録についての展覧会だったようだ。
リベラルなものの極点にはアナーキーなものがあるのだろうか。あるはずだ。そのアナーキーなものとの一致の極点に総合的な観点を見出すことができれば、パンデミック以後の突破口となるであろう。
表現の域に到達していない思考は省みられないし、省みれない。観測できない。ため息ひとつでいいから表出されることが重要だ。表現されるものはおのずから生み出されんとするものだ。われわれは表現しつつそれを観測するのだ。
些細な断片の集積としての文学。詩とも小説ともちがうもの。それは金にならず、矛盾を原理とする。それは徐々に膨れ上がってゆく。
過去のノートを見返した。荒々しいが、これはこれでアイデアの財産となる。
日付を相対化できないだろうか。紐づけされた固有の情報と全体としての塊。
ズームもその逆も可能な、入れ子構造に近いかのような言葉の樹海。言葉の樹海という言葉はきにいった。
10代後半から手書きのノートをずっとつけている。言葉ばかりではない。これをなんとかひとつながりにできないものか。けっこうな量のノートが溜まっている。自分のものしたものはこれくらいしかのこらないかもしれない。それはそれでおもしろい。膨大な日記やノートにはシュールさと不穏さとロマーンがある。
清書には、夢と革命性がある。
いったん圧倒的なものを前にしたら、同じことをしてはいられない。
全部を読んではいないものの、『野生の探偵』には教えられることしきりだ。短い起と結、中間部長大な断片的なクロニクル。それが一般的な、大衆向けの商品としての読み物になるか、私的な、少数の逸脱者向けの謎としての記述になるか、危うい天秤あるいは橋の上あるいは下にある書物。それは一冊も売れなくても、一人にすら読まれなくても、何か恭順を許さない悪辣で永遠を帯びた書物になるだろう。
2月から4月の日記を合わせても、5万文字にいくかどうかという量だ。洗練されていない言葉の表現は量がものを言う。あるていどの量がなければそれは時間を背負った古典に勝てない。その敗北は多数派への、権威への、力への屈服を意味する。古典に敗北するな。あくまで戦うのだ。そこから全てを得てきたとしても。
パソコン・キーボードでの執筆は、難しい漢字や高度な語彙(語彙という言葉自体が高度だ)の頻繁な使用を可能にする。これによってわれわれは、身体化されていない言葉の思考・思念化を行い続けることになる。われわれはAIの登場のすこし前からすでに生成機会としての脳髄を酷使しているのだ。これは言語の脱音楽を意味する。近来の言葉のなんと舌足らずで未熟なことか。現代語は詩より散文に特化している。
完成を遠のかせるための仕上げ。
04/27
けっこうな雨の中で自転車を疾走させた。
今後の計画を話し合った。
ファミレスに行った。コーヒーを飲んだ。
今年の文学フリマ東京42には参加せず、だ。資金不足のため。次回は同人誌ふくめ参加したい。
というわけで、文学フリマ分の資金がわずかに空いたので、何かに使おうか考えている。
「文化系トークラジオLife」で、日記特集をしているので、日記をこうして書いている今にちょうどよいと思い、書きながら流す。本棚動画でなじみ深いスケザネさんが司会をしている。他にも名前を知っている方が何人か登場している。
夜や人のいるところの横でも静かに練習できる楽器はあるか。ベースなどはいいかもしれない。以前持っていて触ったことがあるが弦が太くて弾くには握力が必要そうだった。ギターやベースは特に左手の動きが慣れない。
そういえば、ちかごろはノートになにか書いて勉強したりすることが板についてきた。一時期はあまりノートを触っていなかったので、ひとつの変化ではある。外国語の単語を書き写したりメモを書いたりすることが多いかもしれない。長文を考えながら書くことは減った。詩や小説を書くことも減った。ふとしたノートの使い方にも潮流があるようで、おもしろい。
Amazonギフト券のデザインが前と変わっている。
日記はおもしろい。毎日なにかを書くのはそれ自体やりがいがでてくる。
いくつか本を注文した。今度は国内の古本屋なので届くのも早いだろう。
さいきん強い地震が増えている。また大きなのがくるのだろうか。
若い人とつきあうとエネルギーをもらえる。話すのもおもしろい。年長の方と話すと、知恵やノウハウがもらえる。落ち着く。人と関わるのは有意義だ。
こういうメモというか雑感を日本語ではない言語で書いてみたい。カイエというものになるのだろうか。パンセだろうか。冗談だが、そういうものの積み重ねが道に通じているきがする。
他人の日記を清書して出版した本があるらしい。本というよりZINEか。
そこそこ書き留めておきたいことも、そこそことりこぼしている。
ウィトゲンシュタインの番組をみた。これでシリーズは全てみたことになる。なにか感動した。
足を冷やしてしまったようだ。さっそく久々に調子が悪い。思考とべつのところに気力がいく。健康にはきをつけなければ。
04/26
休日はまったり。
漠然と本を読んでいた。
暇は大いに何かを生み出す力になる。
世界には英語や日本語や中国語などさまざまな言語がある。これは見方をかえるとバベル以後の、混沌の状態であるともいえるのであって、しかし世界は(言語によって?)整然としている。依然として混沌とした状態であるのに調和してみえるし、調和しているけれども実際は雑然として世界はある。
今後、世界中の人々は「住み分け」をすることになるのではないかと思う。たとえるなら「火の国」や「水の国」があって、それぞれの国の特徴とその人の特性によって住む国を選ぶ。そのうち飽きてきたり気がむいたら他の国に移住する。火の国は行動的で言葉も荒っぽい。水の国は定住的で言葉は静か。風の国は遊牧的で言葉は早口。そういうふうになっていき、国・言語自体も常にかわっていく。ゆるい住み分けなら国にも人にも負担はあまりないはずだ。実際そういうふうになりつつあるところもあるかもしれない。これぞ「小国寡民」。
ホワイトハウスで銃撃があったそうだ。こういうかたちで時代は不定形の流動するときにきている。なにが起こるか正確には神か仏か妖怪にしかわからない。ただし歴史は人間がつくっている。責任の所在も人間に帰するしかないわけだ。
自分の小説をすこし読み返した。起こっていることが起こっている小説だ。そういえば、以前、『ゴッテス・ゲシヒテ』という自作の小説について人と話した。Amazonでペーパーバックを販売している。自伝的な、それでいて前衛的な小説だ。荒々しいつくりだが、いくつかの要素を入れ込んである。この小説と『まだら牛の祭り』が、分量と内容の面から言えば、名刺的な代表的な作品ということになるのだろう。さきほど読み返したのも、まだら牛のことだ。英訳したらおもしろく読んでくれる人も世界にいるかもしれないので、読みながら対応する英語を考えていた。細かいニュアンスに気をつければ、十分に伝えられそうだ。むしろ別様の小説になることを、愉しめるだろう。この小説を読んでいると、書いているあいだの、少量ではないカフェイン接種(よくコーヒーを飲みながら暮らし、書いていた)が思い出されるし、如実に感じられる。
中島らもを読み、ムージルを読んだ。どちらもおもしろい。
G-C-F-B♭-E♭。ギターのチューニング。よく知らないが試しにしてみた。いちばん上の弦は切れてしまった。ググったところ、E-A-D-G-B-Eにするのが一般的らしいので、そうしてみた。E-A-D-G-B。弦はもう古いかもしれない。取り替えようか。
04/25
多くの服と関わった。服も本も、まずたくさん見てたくさん触れることだ。そこからいいものがわかってくるだろう。
インドから小包が届いた。中身は本。ロレンス・ダレルの『アレクサンドリア四重奏』と『アヴィニョン五重奏』だ。重厚なペーパーバックで、それぞれ一巻本になっている。内容も重厚なので、ゆっくり読んでいきたい。非常に楽しみだ。
そのあと、届いた本を読んでいた。
仲間とすこし散歩に出かけた。
04/24
仕事場にやっと(?)キーボードが届き、それに慣れている身としては大いに捗った。外国製らしく、打感がタイプライターのようですこぶる楽しい。文章を作成する業務は性に合っている。
『Der Mann ohne Eigenshaften』の後編をもっていった。昼休みに書き写したりしていた。
YouTubeに動画を投稿。おもに朗読動画。ほくほく。予約投稿もできるので、あらかじめ作ってから予約しておいた。枯れ木も山の賑わい。
ドイツ語を学び始めてしばらくたつが、だんだんとどんな言語なのかがわかってきた。文法というかたちで学んだ文法と、独自に直感で学んだ法則とがある。それらが混在してカオスにぐつぐつ煮えているなかから、へんなドイツ語が夢にでてきたりする。文言はわすれてしまったが、文字ででてきた。そんなに長くない文章のようなものだった。意味は分からなかったが、おそらく脳内で、吸収された言葉たちが組み合わせられていっているのだろう。ある朝とつぜんドイツ語が書いたり話したりできるようになるかもしれない。そんな日を楽しみがりつつ、学びの日々を過ごしてゆく。
宮沢賢治をみつけてパッと開いたら、あらためてその言葉に感心し驚いた。べつの道を通過したあとにわかる道もある。
アープラはたまにファンキーになるからおもしろい。ちかごろはファンキーになっていない。ベイビー。
話のしかた、すすめかたにもパターンがあるだろうと思うが、そういう型からはずれた仕方もあるだろう。それもあとからみれば、あるひとつの型であろう。
即興で生成された複雑な言葉に注意せよ。人、それを毒性の強い妄想という。
よく読む作家のうちで、三島由紀夫はもっとも苦手な書き手である。なぜなら、エセー的に散策として読み歩くことがむずかしい。私は若いころの出会いのせいか、彼とフランクな交流ができない。ネット上や書物上などの愛好家たちのなかには、わりと友好を結んでいる人も多いかとおもう。彼の文体は、まるでサミュエル・ベケットやレフ・トルストイのように単線的で多声的な読みを許さないかのような印象を与える。だが難所でも行き詰ることなく、彼は見事に進んでやりきってみせる。私からみれば、彼をたとえるなら運動神経バツグンの転校生、鉄棒の逆上がりを難なくやってのける男だ。そこには嫉妬と羨望と謎が入り混じったまなざしがある。なにをすきこのんでこんなウルトラCを永い事みているのだろうか。そういえば、彼には「サーカス」という短編がある。それは少年と少女が二人してとっておきのウルトラCをやってのける物語である。綺麗に統制された、騙りと嘘――。彼の作品の特徴のひとつに、朗読よりも目で追う散文であるということがあるだろう。語彙や文体の織りなす不思議としか言えないが、現在のところのわれわれには、耳に楽しいというより目に響くといったほうがよい。言葉の花束をつくりたいと本人は語っていたが、かれの言葉の花束を一篇の音の詩としてわれわれが味わうには、まだまだ時間がかかりそうである。奇妙にすら思えるのは、彼が平安時代や江戸時代に読まれるということがありえないという当然の事実だ。なぜ彼は昭和に生まれたのか。一種の逆説だが、根本を穿つ問いではある。
4月もそろそろ終わりか。早いものだ! 今回は日記を書きながら時を体感していたので、本当に早い。
どの時点で文章は終わるのだろう。死んで標本になるのだろう。ムージルの残した問題は深い。
たとえば、紫式部がムージルのようにバラバラの草稿原稿を残しており、藤原定家がそれを現存のひとつにまとまった『源氏物語』にした……ということはありえる。その場合、近代的な実証主義からすると、紫式部の独立した著作とはいえないわけだ。ムージルの場合、無数のバラバラの草稿をアドルフ・フリゼーが脈絡のあるひとつのロマーンに仕立てあげたのだが、結局それは批判をつよく受けた。人は物語の終わりを見たいという欲求と、本当の・由緒正しい物語として読みたいという欲求と、それらの背後の隠された真実を知りたいという欲求があり、それに支配されている。AIが単独で出力した物語にそれらの欲求を満たす要素がどれだけあるかと思えば、人に歓んで読まれるかどうかはおぼつかないわけだ。
江戸や明治の職人の入魂ぶりには感心を通り越して感動する。あの、拵えものへの、驚異的なひたむきな力の入れ方。仕事中の静かな佇まい。私の好きな人々は、技芸の磨きに余念がない。
学校小説のアイデア。小中高大一貫校で、少年少女たちがそれぞれを生きる。長大な小説。もしくは漫画。
MMMの作品は、漫画化されないのだろうか。
04/23
岩波文庫の『易経』上巻が届いた。下巻しかもていなかったのである。
出先に英和辞典をもっていった。コアレックス、第三版。昼休み、暇だったのでノートに言葉を写していた。発音記号も模写した。
ひさしぶりにUta Tanabeを聴いている。
ゆったりした時間の中の作業だった。
ジョージアの「深煎りプレッソ微糖」がうまい。
言語について思いをめぐらした。国が違えば言葉も違う。それによって文化や風習も変化する。さまざまな言葉や文化を知りたい。
昨日『松浦寿輝詩集』を読んでいた。知的でよかった。1992年に出版。
夕食を早めに済ませた。
『佐川ちか詩集』を吟味したい。楽しみだ。
詩は、現代語の幅を広げ、深めていくから素晴らしい。古くから汲み取って、新しい言葉をかたちづくってゆく。
自転車で遠出をしたい。隣町とか。
電車に乗ってでかけたい。東京とか、海とか。
何か、英文ないしは外国語をすこしずつ翻訳していきたい。学びになる。
落ち着いたいい日記になってきているので、あとでまとめて編纂して、加筆修正してかたちにしたい。ちょうど何か長くてトピックが散発されるものが書いてみたかった。
2024年からというもの、本当に『2666』の影響が大きい。それよりすこし前に読んだ『1Q84』よりも精神的には大きいかもしれない。文学的には、ものすごいものを見た、知った、体験したという要素が強いが、読書的に、つまり生活に接する読むという行為についてのニュアンスに、さらに言うなら言葉の使い方そのものに、かなり深く影響を受けた。作品の出来不出来と影響はそこまで関係がないと思っているので、面白い作品を読んだうえに通常の記述のラインでつきささった書物は珍しい。時間をかけて一冊の本を読んだということもあるが、もっと拠点的な、言葉が寄り集まる総合的な場としての書物という側面がある。
現代文学には、「巨匠」がいない。ゲーテやドストエフスキーをまつまでもなく、近代文学は巨匠のつくった時代だった。だが芸術家はアマチュア化し、趣味となり、誰でも創作にコミットできるようになった。小さな個人個人が巨大なものをつくれるようになったのだ。だが、その代名詞となるような大きな名前は、今現在存在しない。必ずしも巨匠は必要とされるものではないのだが、現代は何らかの過渡期であるのだろう。
今より若いころは、つまり20代は、とにかく焦ってむさぼるように本を読んでいたが、いまは蔵書が少なくなったことも相まって、落ち着いて、ゆっくりと何度も同じ本を眺める時間を多くもうけている。このほうが豊かな時であることは間違いがない。もちろん、20代のころの嵐のように読む日々も懐かしく、また訪れてほしい。
時が盈ちるということは大切だ。それはいつか盈ちる。
膨大な一冊の書物を浴びるように熟読するのはえがたい悦びだ。
雨が降っていて落ち着く。
『1Q84』を英語で音読した。
いままでの人生でそんなに勉強してこなかったので、そこはもったいなかったかもしれない。しかし考えてみるとやるべきことが他にいろいろあってそっちをやっていた。それと或ることについては続けていたのでさっさとできるようになっている。
すこし小説を書いた。おそらく変なものになる。
小田勝『古代日本語文法』。比較的新しい古典文法書だろう。
『Der Mann ohne Eigenschaften』を音読していて、その響きや語感、字面から、あらためてこれは「上品な」階級に属する人物とその周辺の人々から創り出された文学作品なのだと思った。当時(戦間期)のウィーンは文化的に洗練され、爛熟し、高度に知的な言語活動が営まれていた。もちろんそれはその後の悲劇への予兆を秘めていたのだが、ムージルはそんな時代の中から自分の生きる道を模索し、人と言葉を追い求めたのだ。チャッピーに聞いたが、オーストリア、特にウィーンのドイツ語はやさしく音楽的な響きと発声をもつらしい。だから、いってみれば『特性のない男』の書かれたのはオーストリアの、ウィーンの平安時代なのだ。その文化が最高潮に達したとき、恩寵のような芸術(作品)がこの世に姿をあらわす。それは、束の間であっても平和と上品な言葉の土台を必要とするのだ。……今度からは『特性のない男』の読みかたがまた変わると思う。きっとこれは現代にあらわれた新たな古典なのだ。
04/22
昨晩は寝る前に、DOMMUNEの飯島愛さんについての番組をみていた。平成が懐かしかった。
ある日とつぜん生命が終わってしまうこともある。ままならないものだ。
堅実に労働した。
部屋のどこかにあるはずで探していた『エセ物語』がみつかった。この小説は福島県出身の室井光広の作品で、室井さんは2019年に亡くなった。『エセ物語』完成していないので、いわゆる未完の絶筆である。『三田文学』に連載中に東日本大震災が起こり、連載を中断、室井さんは新たな雑誌『てんでんこ』を立ち上げそこに連載した。被災の時のエピソードも作中に盛り込まれている。そういう紆余曲折を経た作品でありつつ、内容も言葉をめぐる豊かな物語だ。おそらくこれは世界の本質を探る、本源的な文学だとおもう。易が重要なモチーフとして扱われるが、易に興味をもちはじめた今になって手元にきたのは易の導きか。
その他、詩集などがみつかった。
04/21
なかなか暑かった。身体を動かした。
用事が多かった。
人の運勢を占った。金運。よい易占ができた。
中国語を少し確認した。
読書メーターを確認した。
『にゃんこ大戦争』を始めた。
04/20
草いきれは、草の生えたところから草のないところへうつっていく。充満したところから空虚なところへうつっていく。
遺産の整理に片が付きそうでひと安心。
ひょんなことから、いくつかの本を手に入れた。『易経』関連の本もある。
中華風伝奇を書いてみたくおもった。少し『荘子』などを読んだ。本も集めていきたい。
『荘子』には、ふだん漠然と考えている思想ないし哲学がすでにしてかかれてある。外篇・雑篇もおもしろく、重要である。
英語の文法書をまた手に入れた。欲しいところだったのでラッキーだ。
本がたくさんあることはいいことだ。
易をたててみた。地風升。昇っていく卦だそうだ。とおもっていたら、一円玉の表裏を間違えていたので、風地観だ。
どの時代にも、確変・革命があり、混沌があり、終末論がある。
易経をつかって小説を書くことはできるんじゃないか。
季刊アープラに寄稿しようかしらん。
小説を書き始めた。1200字ほど書いた。
『老子』を読んだ。音読した。
ウィトゲンシュタインのテレビをみた。第三回。次回で終わりだ。
04/19
母に会った。久々の再会。話もしっかりできたし、元気そうだった。また会う約束をした。次は本や甘いものを持っていく。老人ホームは初めての場所だったが、静かな、鳥がさえずっているような自然のなかで、とてもいいところだった。
今後のプロジェクトがまた進んだ。
そば屋にいった。おなじみの店なのだが、初めての人たちに好評だった。
『1Q84』のテーマとして、天吾の父との和解と別れ、青豆の母への変化がある。それがきれいなコントラストを描いている。
本屋に寄った。新書、スペイン語単語帳、英単語帳、エクセル入門書などを物色した。何も買わなかったが、今後エクセル本は手元に置いて使っていきたい。英単語帳もよさそうだった。
エアロフォンにフルート型が登場したらしい。素晴らしいことだ。ただし25万円くらいする。
どんどん暑くなっていく。もうクーラーをつけたほうがいい。
ムージルは、神秘主義ということで解釈されるが、ドロドロした部分ももっている。
谷崎潤一郎の魔術的な語り。
情景描写にあふれた長編小説が読みたい。なにかないか。
『2666』第四部で特に描かれている事件は、世界を破滅に導きかねない凶悪な力であり、快楽や邪念や倦怠から引き起こされたにせよ、われわれを直接の関与・非関与問わず猛烈につきうごかすもののあからさまな発露だ。また、出来うる限りの探偵小説の(そしてまたパロディの)極大コード進行でもある。
『2666』のあとがきを読んだ。「くり返し読まれるべき小説」と書いてあったが同感だ。
『魚の夢』を少し読んだ。架空の書物について書かれたくだりがおもしろい。そのままひとつの書物論になっている。第一巻は、ながながしい議論がメインになっているようだ。意欲的な作品だ。
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の原文を少し読んだ。やはりいい。すみずみまで文章がつくりこまれた作品だ。
言文一致とは、音と文字をシンクロさせることだったのか。そうか。
2666年とは、やがてわれら人類が経験する、2000年代でも暗示的な数をもつ年だ。ボラーニョは形而上的なこの西暦を物語で具体的な物に落としこんで表現した。そして村上春樹は二つの月という象徴をつくり、形而上的な世界をつくりあげた。対照的な両者。
04/18
夢で、大きな公園のようなところにいた。老子に祈ったら、河童がでてきた。うれしいので「河童やよい、うれしいよい、河童や河童やうれしいよい」と歌って一緒に踊った。河童や子供たちもでてきてみんなで踊った。その前にも、自由自在融通無碍の境地にいたようなきがするが、よく思い出せない。
気持ちよく仕事ができた。
在庫管理システムを探している。
得れば得ただけ、足りないと感じてしまうこともあるものだ。
思想・哲学・文学・芸術の会から栄養を吸い取って、小説でもなんでも作品をつくりたい。ある意味、この日記もそういう作品だ。
キム・ディールのライブ音源を聴いている。
注文している洋書は、インドのデリーからくるらしい。それはいいが、いま品物がインドにあるのか日本にあるのか、情報が錯綜していてわからない。
Feedlyを始めてみた。いくつかフィード?をフォローした。哲学辞書や、海外の書籍のニュース。
rururuも利用していこう。いまつかえそうなのは、あがってくるポッドキャストを聴いていくこと。
いわゆるひらがな多用文をつかって文章がかけそうなきがしてきた。ひらがなは時間をかけて外来語も和語化する。
英語で読みたい本。ベケット。ポール・オースター。
04/17
日本の古典にはつねに立ち返りたくなる。
千葉の香取神宮で、神幸祭という祭りが行われたらしい。式年で、なんと60年ぶりだったという。
ふつうの小説では、ひとつでも殺人事件が起これば物語となるが、『2666』では膨大な数の殺人事件が起こる。殺人とは恐ろしく悲しい大きな出来事だが、それもあるていどを過ぎてしまえば、どれだけ死んでも無感動になってしまう人間のサガ。『2666』で描かれていことは一種の挑戦だ。無慈悲な一連の出来事が物語の時空を飲み込んでしまうのである。それは戦争と革命の世紀をもったわたしたちの悲劇の歴史と表裏でもある。読んだ人は人間の儚さと世界の無常さについてなど、さまざまなことを考えさせられる。
注文していた洋書が発送された。海外から送られてくるようだ。届くのが楽しみだ。
笑顔には、沢山の種類がある。
自分はアウトサイダーでもアウトローでもない。だが作っているものはそういうものに親近性のあるものだとおもう。
ピアノを弾いた。弾くたびごとに手癖がつくようにしたい。意識しないでも、耳が自分の音は聴いているので変化はあるはずだ。
小説から物語性を無くせという動きが昔あったが、音楽にも物語性はあるとおもう。それが全くないと、音楽として認識できなくなってしまう文法のようなものが。
ピアノの特性とはなんだろう。それは音が形をもって整えられていることだとおもう。音程と音階を視覚で体感できる。シンプルで、本質しか表現しない。
打楽器とピアノで曲をつくってみたい、演奏してみたい。自分が二人いれば。
どこかに即興演奏の好きな人はいないだろうか。
ジョバンニ・イダルゴが元気そうだった。
YouTubeの動画がAIで多言語対応しつつある。広がりが生まれそうだ。
何事も集中力だとはよく言ったものだが、向き合うものむきあうものに対してすぐに集中できる精神が欲しい。
お経は、何か得るものがどうとかいうより、真理として、帰依して読むのがいいだろう。
仏教についていえば、教えが必要ない人には無理に理解し受け入れてもらうべきものではないだろう。もし必要になったときに、立ち現れてくるものだろう。
猜疑心がとびきり強い人こそ、つっこんだ僧になるのかもしれない。
これから一年くらいの計画を話し合った。
人が対話している動画を流しながら、何か作業をすることが多い。喫茶店の隣の席、他人が会話をしている横で自分がなにかしているイメージ。
「メルシーベビー」という方のnoteが、良さそう。直感でフォローした。
ツイキャスで雑談をした。コラボ機能を使った。ルソーの話から入って、西洋古典の話をした。
主たるは俳諧だとおもうが、文章に余白・空白をおおくとって余情や豊かな読みを受け入れる幅をもうけておくというやりかたがある。『1Q84』、『2666』を読み返していてもおもったが、文章は完璧に、見事に書く必要はない。なんとなくそこに風情が入りこめばよい。
04/16
日記をつけることは日々のはりあいになる。
休みなので、少し遅い起床。朝起きて、さっそくピアノを少し弾いた。
ミルチャ・エリアーデの小説『妖精たちの夜』の英語版は『The Forbidden Forest』というらしい。
アープラには、馴れ馴れしい人がいないことが特徴だと思う。馴れ馴れしい人が嫌いなわけではないけども。
出先のメシが旨かった。
バスというのも面白い乗り物だ。
カズオイシグロの、充たされざる者という小説が変わっているらしい。
夏目漱石が何かと話題だ。『それから』 は、若者の焦燥と独立を扱っていて良かった記憶がある。
風が強く、気持ちのいい一日だった。夜中の雨も去り、天気はよかった。好きな感じの一日。
若い人を応援するおっちゃんになりたい。とくにくすぶってる人。
昨日のDOMMUNEで、20世紀を再考する時期にきてるんだという話があったが、本当だと思った。
今日のDOMMUNEに、ベケットの翻訳者である長島確さんがでていて、そのつながりでベケットを読んだ。やはりいい。英語の本も欲しくなった。
ジョン・ロックの『人間悟性論』(これもいつか英語で読んでみたい、英語による哲学)、村上春樹の『職業としての小説家』を少し読んだ。どちらも刺激になった。村上はヘミングウェイのことを書いていた。ロックの主著は彼の思想の根底を成すものであり、観念と経験、知識について体系だてて論じている。
04/15
協力した作業。
連れだって散歩をした。歩いていると血流がよくなるのかアイデアが沸いて話がはずむ。
洋書に目を通している。
ボラーニョ文学の特徴について少し考えていた。平易な文章で作品を書いている。キャリアの途中、手書きからパソコンに替えたらしい。
Shoestringsというバンドを知った。靴ひも。夫婦でやっているらしい。二人とも爽やかでいい声。ちょっと、Sweet Tripに似ている。
英語の勉強と知識の置き所のためのコセンスプロジェクトをつくった。「英語の知識」という名前にした。
いつのまにか、ページのテキストをTXTデータでAI用に出力できるようになっている。右側のツールから可能。
DOMMUNEで菊地氏と大谷氏の番組を観た。旋法、モードという技法概念について語っていた。
電子ピアノで即興演奏をした。即興はいろいろやりたい音が自由に出せるので楽しい。
夜は夜想曲。今度は昼間に明るい音を出してみよう。
04/14
協力して仕事をした。
有意義なお話をした。近況、映画のこと、読書のこと、語学のこと、言葉と心の関係のことなど。また話したい。
Amazonのオンデマンドのペーパーバックは壊れやすいようだ。しかし『魚の夢』はまだ壊れていない。
とにかく、外国語は読むことが大事だということだ。
04/13
今日は力仕事をした。暑かった。
若い人は村上春樹を知らないらしい。ましてや世界的な知名度をや。その人は赤川次郎なら知っていた。ハルキブームも、一部の階層、世代だけのものなのかもしれない。
『1Q84』の英訳を読んでいた。
今日4月13日はジャック・ラカンとサミュエル・ベケットの誕生日だが、同じだったのか。
「まるごとバナナ」というスイーツがおいしい。
人とおやすみを言い合えた日はすこやかだ。
コーヒーが半額だった。買いだ。しかもスティック式で種類があって美味しいというね。
洋書の朗読を、ショート動画で発進し続けるというアイデアをひらめいた。
本の著作権とYouTubeの関係がまだイマイチつかめていない。どこからどこまでがどうなのか。
今晩は、NHKでウィトゲンシュタインの番組のつづきがある。みてみよう。→みてみた。熱心に小学校の教師をするウィトゲンシュタイン。哲学の世界から離れて。
04/12
日記は常に未完だからいいのんだろう。
休日。今日は楽しみな予定がある。
英文を少し読んだ。社会学の本。
仲間と、ラーメン屋に行った。初めての店だったが、旨かった。そのほかにも、いろいろと回った。
自転車で市中を長く走った。いい運動になった。少し体力が落ちたので、また鍛えたい。
ドイツ語辞書と、ペーパーバックのムージルを眺めていた。ゆるゆる独学しはじめて5年あまり。なんとなく、文章のかたちがわかってきた気がする。ただ単語がわからないので、意味がとれず、全体像がうかんでこない。そのうち、とつぜんうかびあがってくることがあるだろう。
友と、ドイツ語を学ぶために『資本論』の原書を読むのはどうだろう、という話をした。膨大な量のドイツ語を吸収することができる。
『特性のない男』の略称は、MoEという。
他者との対話によって、これからの予定が立てられていく。そのパズル性。
ディスコ―ド内で、ジャズを流して作業した。マイルスやコルトレーンを中心としたミックス。
今日は暑かった。運動したので猶更。少し冷房をかけていた。
Sakana Chatという国産AIをやってみようか。
寝る前にコーヒーを飲んでみた。
04/11
ジャズを聴きながら寝たら、夜中に目が覚めた。
今日は、コーヒーの焙煎を手伝った。南米の上質な豆で、皮を取り、煎り、淹れる。酸味もあって非常に香り高い。いい体験をした。
今後のことをさまざま話し合った。非常に有意義な時間だった。貴重な知見をたくさん聴くことができた。プロジェクトが軌道に乗ったならば、いつか社会に還元したい。まずは生活の安定と活動の拡充である。
水道水に入れると味がまろやかになる品をいただいた。飲んでみるとこれがまろやか。これから毎日の水筒の中身が楽しみになりそうだ。
今後のために、スペイン語を学習するかもしれない。将来、使うかもしれず、スペイン語文学は大好きだ。習得して、いいことしかない。また、世界第三の言語といわれる。ますます意欲が高まってきた。
腹いっぱい食べられた一日だった。うまいものはうまい。というか腹が減っている自分にとってはなんでもうまい。
夜遅くまで語り合った。休日前はこういうことができるからいい。おもしろく、ためになる話をきけた。途中、大喜利めいたターンになって最高だった。バイオハザードをやってみたくなった。
04/10
今日は朝から雨が降っていた。涙雨だろうか。というのも、今日は父の葬儀があった。斎場で最後の別れをし、火葬して、遺骨を持って帰った。一段落ついたの感が強い。弔いの人も来てくださって、ありがたかった。人とのつながりは大切にしたい。
帰って出かけようと思ったが、相変わらず雨が降っている。
このあと100分de名著のウィトゲンシュタインの回があるので、観ようとおもう。
ウィトゲンシュタインの回を観た。おもしろかった。
『につぽん製』を読む。
本はパラパラ読んだりパッとめくって目についたところを読むのが常で、自分に合っているようだ。
『新古今和歌集』に、いい歌をみつけた。「おきてみむと思ひし程に枯れにけり露よりけなる朝顔の花」曾禰好忠。
注文した本を楽しみにしている。月末には届くだろう。
ある予定が急遽キャンセルになってしまった。さて、何をしようか。
と思ったら新たな予定が。ほくほく。
明日もがんばろう。
外国語学習サーバーに入ろうかな。
04/09
落ち着いた労働だった。
昨夜、寝る前、急に寂しさを覚えた。なぜだろうか。
どんどん人と交流し、仲良くなっていきたい。
ペーパーバックから独特の匂いがする。英語の体臭、といったところか。
英語関係の本がこつこつたまっていく。
住居を変えたら、新聞を取りたい。毎日にメリハリが出るはずだ。
VCは楽しい。
以前より、夜が、暗闇が怖くなった。
『2666』の本がボロボロになった。背表紙が半分はがれている。
04/08
肉体労働デー2。引っ越しのような作業をした。物は重かった。家が覗けてなかなか楽しい。
英語版『1Q84』と『英文法のテオリア』が家に届いた。1Q84のほうは英語の勉強と読む愉しみをかねて。テオリアのほうは英語の文法書を一冊も持っていなかったので、参考になりそうなものを買った。両方ぶ厚い本で、読みごたえがある。折に触れ黙々と読んでいきたい。
回転寿司屋かファミレスでバイトするのもいいと思うた。
猫の餌を食べてみた。味が薄く、人間の好みの味ではなかった。ただ、どこかの国のジャンクフードにワンチャンあるかんじ。
暑くなってきた。移動の車ではエアコンがかけられていた。
今年の夏も暑くなるだろう。
日本語で哲学することは可能だろうと思う。ただ、その伝統がなかったり材料や素材がなかったりするだけなのだろう。学問の基礎となるものだ。本居宣長が打ち立てたりもしているので、簡単ではないが可能なのだろう。
加筆修正しつづけている長編小説、『まだら牛の祭り』を加筆修正した。結末をかえ、いくつか章を追加した。これで重層的な読みがさらに可能になるだろう。まだまだ改稿のしがいがある。
04/07
肉体労働デーだった。業務と移動が多く疲れた。やりがいはある。
庭にきれいな花が咲いていた。
空き時間に、相川さんからもらった英語の本を読んでいた。科学の哲学の本だ。英文を読んでいると意味と意味がくっついて総合した意味になるのが体感できて知的興奮があり心地いい。
昨晩、寝る前に『魚の夢』を読んでいた。子供がでてきた。夢のような感触の文章だった。レトリックが豊かでおもしろい。
『魚の夢』を読みながら、文学による活動・共同体を活性化できないか考えていた。できるだろうという結論になった。方法は誰も手取り足取り教えてくれない。が、これからの時代、確実に展開できる営みだ。
くずし字を読めるようになりたい。若いころ学び損ねたので。この前歴史資料館に行ったら、明治時代の開拓者の手記が展示されていたが、満足に読めなかった。どうすれば読めるようになるのだろう。どんなことがどんな文体で書いてあるのかがわかれば、予測はつくのだが。とりあえず手元に、古典時代のくずしかな字典はあるので、そちらをあたってみようかと思う。
Spotifyでジャズを流している。
風呂に二度入った。湯冷めしないように気をつけよう。
NHKで、「令和の貧困」と題して特集が組まれていた。特に若年層、家庭に問題があったり精神疾患であったりする人たちが、貧困に陥るケースが増えているという。スポットワーク(タイミーなど)でその日暮らしをしたり、宿を転々としている場合も多いらしい。番組では、生活保護を抵抗感から受けようとしないという状況が説明されていた。しかし、不安定な貧困に陥っている人は一刻も早く生活保護を受給し、安定した生活と健康を取り戻さなければならないだろう。いまは日本社会も過渡期であり、大きな転換点をむかえている。家庭崩壊、格差、インフレ。こうした厳しい現状に対処できないからといって、不幸なことになっていいはずはない。最低限度の保障でも、少しでも支援があれば、それは頼もしい力になるはずだ。
いままで本を読んでばかりだったので、これからはいろいろ経験をしていこうとおもう。
今日はよく寝られそうだ。
ひょっとしたら、文章・文体のニュアンスというものは、よっぽど感情のこもった書籍か、文豪の散文くらいにしかないのかもしれない。
04/06
遠くまで父の顔を見に行った。安らかだった。
父の形見にいくつかの物をもらった。そのうちの一つに電気カミソリがあって、さっそく試してみたら、なかなか使い心地がよかった。老人ホームで使っていたのかもしれない。少し髭がついていた。それを洗って、これから使うことにする。その他、ティッシュやマスク、電話帳、少し意外な本など、役立つ助かる物が多かった。最後までありがたい。感謝。
この前、最後に生きている父に会えたのはよかった。またみんなで会おうや、と言っていた。それはかなわなかったが、母を大事にしていこうとおもう。久々に会う父は痩せていたが、美しい目をしていた。立派な人だった。
老人ホームの母は元気だそうなので、休みにたまに会うことにして、東京で仕事を見つけて、実家を売り払って、都会に出てしまうのもいい。何が起こるかわからないが、上京を考えている。
そば屋に行った。かつて家族でよく注文したメニューを食べた。
寂しさを覚える一日だった。
求人サイトをチェックした。一応いくつかのスカウトが来ていた。こんな男でも拾ってくれるところがあるといいが。
村上春樹の英訳を読んでいた。なにげない会話のタッチに、寂しさと優しさが沁みる文章である。
心に残る空虚感。まさに胸に穴がぽっかり空いてしまったような。ゲームと音楽で気を紛らわす。
『インクリメンタル・エピック・ヒーローⅡ』をやり、コルトレーンなどのジャズを聴いた。
読書はつねにともにある。鎮魂でもあり、寿ぎでもある。欠かせない、かけがえのないもの。
いまいる職場が、これといって知的労働を行う場所ではない。ということは、代償行為として読書が捗るのも自明の理ということだ。
この調子では、4月も日記を安定して書いていけそうだ。分量というより、継続の面で。
都会は喧騒が激しいだろう。果たして住み心地がいいといえるのか。
私は千葉すら知らない。いずくんぞ東京を知らん。まだほとんど架空の街だ。
紙のノートに記しゆくはずの文章を、電子の、公衆の面前で記述し、置いておく。妙なリテラシーの結果。
フュージョン音楽のデリケートさ。電子楽器のタッチ。ジョー・ザビヌルを聴く。
あらゆる景色や人に出会うのは冗談キツい話になりそうだから、せめてあらゆる言葉に出会ってみたい。書物の上の旅。物語だけではなく、世界中の言葉そのものへと。
シェイクスピアの猿のようだ。キーボードで文字を打ち込むのが楽しくて仕方ない。かれこれ大学生くらいからやっているから当然か。
知っている言語ほど、ルーズに文法を気にしないで使うことができる。日本語でへんなかんじの文章を書くことができるのは、案外日本人だ。
加筆修正してまとまった日記にして出版したくなる。土佐日記のやうに。もののあはれ。
新作の電子書籍が売れた。とてもうれしく、驚きである。文章をものすことくらいしかできないが、読者がいるだけで居心地がいい。
どうやら、文章と、その解釈にも、主旋律と、対旋律があるとおもわれる。書くのも読むのも、うらはらの文章を隠しており、そちらとの共鳴を求めている。
日付の意味。時間。
こっからおれのもろもろがはじまるというきもする。
04/05
春が本気になってきた。というかもう、ちょっと暑い。
休み。二度寝ができる。
図書館に行った。英語の本や、日本や中国の古典の本を物色した。ボラーニョの『野生の探偵たち』を少し読んだ。やはり良い作品だと予想がついた(この言い回しはいいな)。それにしてもボラーニョは、その諸作品によって架空の文学史をつくりだしている。『野生の探偵たち』は架空の詩人の遍歴だし、『アメリカ大陸のナチ文学』は架空の作家事典、『2666』は架空の小説家のクロニクルである。彼はダンテ……ジョイス……フォークナー……につらなる芸術家だとおもう。ローカルなものを世界的に変えた。記述によって言葉のレンズを微妙にゆがませて、途方もない虚像を見せることに成功している。
ウェイリー訳『源氏物語』。殆ど意味はわからなかったが、読んでみた。
暑がりなので、もう冷房をかけている。空調の使い方がむずかしい時期。
Amazonで買い物をした。ふくふく。
04/04
朝まで降った雨と強い風で、桜の花が散っていた。
父が死んだ。こんなことを書くのも一生に一度しかないが、覚悟していたこととはいえ悲しい。良い父だった。まだ大きな実感はないが、今後、徐々に面影を思い出していくのだろう。これでこの世には母と自分と二人になってしまった。
休み時間には『雨月物語』を読んだ。日本の古典もどんどん読んでいきたい。
04/03
電子書籍を出版した。『尾を吐く蛇』という。以前の著作の言葉を使った。書き溜めた前衛的な散文を集成したもの。いい本になったとおもう。
今日は疲れた。昨日少し遅くまで編集作業をしていたからかもしれない。
淡々とした日常がよい。
04/02
言葉というのはおもしろい。定められた意味をもつ語をくみあわせて、新しい意味の文をうみだす。
休みの日。
雨がちだったが、出かけた。フードを被った。
本屋に寄った。受験勉強用の本が並んでいた。自分にちょうどよさそうだと思って立ち読みした。辞書がほしいと思った。
うどんを買った。
文学上の問題というのは解決しない場合が多いとおもう。時をおいて、また回帰してくる。
たとえば自我の問題。夏目漱石が取り上げた近代的自我も、いまのSNS全盛期には「分散した自己」という形で裏返しに回帰してくる。自意識過剰も問題になれば、自己意識分裂も問題になるわけだ。文学が扱わなくてはいけない範囲は広い。それに、問題があったとして、それをすぐに解決しなくてもいいのだ。それを露わにする技術が、文学には求められる。
いまや誰もが文学に参入できるので、文学の歴史の大きな流れのなかにいるという実感をもつことができるかもしれない。その感覚を持つことができれば、文章を読んだり書いたりすることが絶妙な快感になってくる。
古語辞典を読む。
「しめす」は「湿す」を意味することもあり、「灯りをしめす」は『灯りを示す』ではなく『灯りを消す(水で濡らして消すから)』ということになることもあるようだ。『好色一代男』にこうした用例があるらしい。口をしめす。
文学好きは、創作において、他の人の文学を評価できないことが多い。これは、彼らがそれぞれ独特の「固有の文学観」をもっていると思いたいからだとおもう。「なんかちがうんだよな~肯定的に評価しづらい」。しかし、文学観をもっていれば相対的に評価することは可能であり、評価できないということは、かえって足元のおぼつかなさを露呈しているようにおもわれる。厳密な哲学をやっているわけではないのだから、妙なこだわりを足枷にして書きつづけるのはやめたほうがいいと、傍からみてしまう。もっとも、文学がそれほど深く心理的・生理的に食い込んでいるのだろう。諸刃のヤイバとしての文芸。
古典文学史の本を読んでいたら、『狭衣物語』を読んでみたくなった。源氏以後の、代表的な物語文学らしい。薫のような男が主人公だという。
そういえば、渚カヲルという名前は薫へのオマージュなのだろうか。
4月になって、一気に日が長くなってきたようなきがする。
ブラームスのインテルメッツォはいいなあ。とてもロマンチックに聴こえる。
04/01
四月馬鹿(そんなフリーゲームがあったっけ)から始まった。
読むと、本を読むのが遅くなる本。文学批評の本。その道の研究書。
4月の目標。淡々と過ごす。
外ばおり夜風になびくばさばさと海はみつめるわれもみつめる
雨が降り、今年の桜も散りつくしてしまうかに思われた。
『2666』を読み返しながら考えたけど、すごい作品で、すごい作家だ。He is good writer.『2666』には細部と全体が連関するように織られた絶妙の肌理がある。その記述は驚くべき高度さだ。ヨーロッパにもこれに比肩しうる現代文学があるのかどうか。