言葉と人との関り
言葉と人との関りを考える際にまず、言葉との私的な関係から考えてみる。ある言葉に、人はその人特有の意味を込める。それはその人ならではの、その人だけの、その人にしかわからない意味がこもっている。しかし一方、言葉には必ず公共的な意味もある。ここにおいて言葉は、公共性と私的性の混合物であるというモデルが成り立つ。だがここで第三の要素が登場する。他者である。一人の人間の中で、言葉が公共性と私的性を持つのと同様に、ある別の人間の中でも同じ言葉が公共性と私的性を持つ。ある言葉において、ある人間の持つ言葉の公共性の部分と別の人間が持つ公共性の部分はほぼ同じものであるといってもいいかもしれない。そこは共有可能ということである。一方、言葉の私的部分については共有されていない所からスタートする。だが人が言葉を発する際には必ずこの私的な部分を言葉に込める。それを聞いた方は、その言葉にその人の持つ私的な意味を付与して受け取る。ここで意味のズレが生じているのがわかるだろう。巷で言う誤解である。こう考えてみれば、コミュニケーションというのは全ての側面において誤解が生じているということができる。厳密にいえば、誤解が生じていないコミュニケーションは皆無なのだろう。だが、誤解というレッテルが張られる場合とそうでない場合がある。なんか通じているなと思える時とそうでない時はある。ここまで来るとあとは単純な量の問題なのだろうか。誤解の量の。 はじめ.icon