解釈学的循環
解釈学的循環(かいしゃくがくてきじゅんかん、独:Hermeneutischer Zirkel、英:Hermeneutic circle)は、ディルタイ、マルティン・ハイデガー、リクール、ガダマーらの解釈学における基本問題。 ディルタイは、その解釈学において、「全体の理解は部分の理解に依存し、部分の理解は全体の理解に依存する」ということを指摘し、何かを解釈する際には、全体の理解と部分の理解が、どちらが先でどちらが後であるとは言えない、循環的な関係にあることを問題にした。
ハイデッガーは主著『存在と時間』で、この循環を時間性として捉え、先行理解(先入見 Vorurteil)と新たな理解との間の循環は必要不可欠である、と考えた。 ガダマーは、ハイデッガーの思想を発展させつつも、この循環を「地平融合」として理解した。すなわち、この地平融合において、元著者のテキストと解釈者のテキストはどちらが優位ということなく、融合して一体化するのだという。この発想は、その後のポスト・モダニズムのなかの一つの契機となった。 これに対しリクールは、ガダマーが解釈における理解(了解)だけを重視して説明にしかるべき位置を与えていないことを問題にし、理解と説明とが解釈学的循環をなしていると考えた。説明を排除しない点でリクールの解釈学は、ガダマーのそれに比して、歴史哲学を嫌う実証的な歴史学者たちにも広く受け入れられた。例えばロジェ・シャルチエがそこから影響を受けた。 『難しい本を読むためには』によると、ひとまとまりの文章を理解するためには、文章全体から著者の最も主張したいこと(キーセンテンス)を見つけ出す必要がある。 そして、キーセンテンスを見つけ出すためには文章を眺め渡したうえで、「この文章は全体として何を言おうとしているか」を押さえておく必要がある。
しかし、文章全体の言おうとしていることはキーセンテンスを見つけ出すこと以外にはない。
上記は一見おかしなものに思える。なぜなら『キーセンテンスを見つ出すためには文章全体の言おうとしていることを押さえておく必要がある』にもかかわらず、『文章全体の言おうとすることを押さえるためには、その部分部分を見ていくことで、キーセンテンスを見つけ出さなければならない』から。
しかし、ひとまとまりの文章を理解する際にはこの堂々めぐりが必要だ、という考え方は現代の哲学の色々なところで言われており、19世紀のドイツに体系化された「解釈学」という思想はまさにこの種の循環をテーマとしている。
日本の代表的な解釈学研究者である塚本正明は次のように説明している。 [……]部分の意義を規定するには、まず全体の意味連関を予想しなければならず、また逆に、全体の意味連関をじっさいに確定するには、部分の意義規定をまたねばならないということになる。ここに、よく知られた「解釈学的循環」が必然的に生じるわけである。(『現代の解釈学的哲学──ディルタイおよびそれ以後の新展開』世界思想社、一九九五年、一七頁)
「部分の意味を決定するには全体の意味のつながりを想定せねばならないが、全体の意味のつながりをつかむには部分の意味を押さえておく必要がある」というこの堂々巡りを「解釈学的循環」と呼ぶ。