西洋哲学史:ギリシャ哲学(プラトン①ソクラテス文学とアカデメイア)
ソクラテス文学
紀元前393年ソフィストのポリュクラテスによって「ソクラテス告発」というパンフレットが刊行された。 その内容はソクラテスのを厳しく批判するものであったいう。(このパンフレットは現存しない。) ソクラテスの死後6年が経っており、死刑後も判決の正当性をめぐって議論がなされていたことが窺える。
死刑の正当性を主張する一派に対しソクラテスと親しかった仲間たちは彼の思想や哲学者としての生き方を擁護するためにソクラテスを主人公とする対話篇を次々と発表した。それらをソクラテス文学という。 プラトンをはじめアンティスネス、クセノフォン、パイドン、アイスキネス、エウクレイデスらが多数のソクラテス対話篇を著した。
彼らは互いに意識し、ライバルとして批判の応酬をしており、論争相手はソクラテス批判者に限らなかった。
例えばプラトンが著した30余りの対話篇には『法律』を除いていつもソクラテスが登場するが、クセノフォンの名前は一度もあげていない。
クセノフォンも『ソクラテスの思い出』の中で一度だけプラトンの名前を出しただけである。
彼らはソクラテス文学というジャンルを使いソクラテスをモデルにしたそれぞれの哲学を展開していった。
アカデメイア
そこでは哲学、数学、天文学などの純粋な学問の場として言論の自由が保障され、特定の政治信条に縛られることなく学問に接することができた。
学園にはオリーブの林があり、プラトンはそこを散歩しながら思索に耽ったといわれる。
この学園はプラトンの死後も継承され、529年東ローマ帝国のユスティニアヌス帝によって異教の学校として閉鎖されるまでの約914年もの間存続した。
ソクラテスは街角でいろいろな人と議論を交わしたが、このオープンな活動は『ソクラテスの弁明』で言及されるように人々に多くの誤解や批判を生み出すことになった。若い頃にソクラテスの魅力とともにその言論活動の危険性を体験したプラトンはこのような危険を避け、より自由により深い対話を安全に交わすためにはそれ用に特別な場所を必要とすると考えたとしても不思議ではない。
アカデメイアではソフィストとの対決のように敵対的な議論ではなく真理を求めるという同じ志を持ったものたちによって共同の研究が行われた。
入門には出身地は問われず、女性の学徒もいた。
授業は講義形式で行われることはほとんどなく(一度めずらしくプラトンが「善について」というテーマで行った講義は不評だった)、プラトンが執筆した対話篇などを素材に学徒たちが共同で議論を行う方式が取られた。
プラトンは「イデア論」など自らの思想を押し付けることはせず、反対に議論の俎上に載せ学徒たちにそれらを徹底的に吟味させ批判を提出することを促してすらいた。 またプラトンの跡を継いだ甥っ子であるスペウシッポスやクセノクラテスら次世代の哲学者たちは「イデア論」を棄却し、自身の思想を展開していった。
プラトンの著作が他のソクラテス文学と比べそのほとんどが今日まで伝わっているのは、アカデメイアの学徒たちがその写本を受け継いできたからである。
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