西洋哲学史:ギリシャ哲学(アリストテレス)
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アリストテレス 前384-前322
生涯
父はマケドニア王アミュンタスの侍医だったといわれる。医者の家庭に生まれたことは彼の経験と観察を重視する実証的な傾向に影響を与えているかもしれない。 17歳の時にアテナイへ出てプラトンのアカデメイアに入学し、プラトンは彼を「学園の知性(ヌース)」と呼びプラトンが没するまで20年間にわたりここで学んだ。 アレキサンドロスが東征に出たあとはマケドニア宮廷を去り、アテナイの郊外に学園リュケイオンを創設した。 アレキサンドロス大王らの後援もあり、リュケイオンはアカデメイアを凌ぐ教育機関となり、多くの資料を収集し、研究者を集めさまざまな領域の研究が行われた。
彼の学派は「ペリパトス派」と呼ばれ、その由来は彼が上級の学生に散歩しながら講義したことからきている。(ペリパテイン=散歩する) アリストテレスは母の出身地であるカリカスにて没した。62歳だった。
『形而上学』
アリストテレスは「実体とは何か」という問いを最も主要な課題とし、これに取り組んだ。
「われわれは実体について、その何であるかを第一に、そして最も主として、否、むしろただひたすらこれのみを探究しなければならない」
「なぜなら事実昔においても今日においても、常に追及され、常に問題とされてきたことは、存在とは何かという問題であり、それはつまるところ、実体とは何かという問題に帰着する。」(『形而上学』Z1. 1028 b 2) 存在の多義性
パルメニデスが「存在はただあるのみで、ないはない」と存在の一義性を主張したのに対しアリストテレスは存在の多義性を主張した。 『形而上学』のZ巻は「存在はさまざまな意味で語られる」という文章で始めれられ、主に4つの意味での存在について述べている。
①付帯的存在
例)ソクラテスの獅子鼻 ⇨獅子鼻でなくなってもソクラテスであることに変わりがない。 ②真としての存在、偽としての存在
「あるものをある」というのが真、「あるものをない」というのが偽
真と偽は認識する主観とその対象との関係の内に成立している。真なる存在や偽なる非存在があるわけではない。
③範疇の諸形態としての存在
存在は10の範疇に分けられる。
実体、量、質、関係、何処、何時、位態、所持、能動、受動
範疇とは「…である」という繋辞(copula)的存在に内容を与えるその最高の諸類である。 ④可能的存在と現実的存在 ⇨『自然学』で後述
アリストテレスは実体の研究は本質と質料・形相の結合体の考察であるという。
また「実体と本質は同じといえるか」という問いに対しては「自体的に存在するものの場合には実体と本質は同じである」とした。(『形而上学』第7巻第6章)
不動の動者
アリストテレスの神学では神学化された目的論を展開し、神は目的因である。 全ての目的はこの究極の目的に向かうため究極の目的自身は動くことなく、他の全てのものを動かす原理である。そのため「不動の動者」である。(『形而上学』Λ巻) このような目的論は『自然学』においても自然の合目的性として語られる。 『自然学』
アリストテレスは自然存在を「運動と静止の原理を自らのうちに有するもの」と定義した。
自然存在は動物、植物など魂を有するもの、火・空気・水・土の四元素とアイテールなどから合成されているものであるという。 『自然学』においてはこれら自然存在に係る時間、場所、無限、空虚などの諸概念もその考察の対象になった。
そのためアリストテレスの自然学は物理、化学、天文、気象、生物、生理、心理など、広範な領域にわたっている。
無限
「無限は可能態としてのみ存在し、現実態としては存在しない」というのがアリストテレスの無限のテーゼである。
彼は天界を空間的に無限ではありえず、恒星天球の外端がその限界だと考えていた。
しかし例えば数を無限に付け加えていくなどの意味において無限は可能的に意味を有した概念だとした。
運動
運動は一般的に「可能的なもの、可能的なものにおける完全現実態」と定義した。
例えば種子が木に成長する過程で、種子が成木になってしまった段階で運動は終わっている。
また種子が木にはならず種子のままである場合、種子は運動していない。
プラトンやピタゴラス学派においては身体は魂を閉じ込めている墓であり、魂は不死なる存在として身体から離れてあるべきものとされた。 アリストテレスはこれに対し、目から視力を切り離すことができないように、身体からその本質(形相)である魂を切り離すことはできないと主張した。 倫理学(『ニコマコス倫理学』『政治学』)
アリストテレスは倫理、政治学は、おおよそにおいて当てはまる出発点から論じておおよそにおいて妥当する結論を得るならばそれでよしとし、数学のような精確さは期し難く、そのような厳密な論証を求めるのは筋違いだとした。
人間の行為、選択、活動は全てなんらかの「善」を希求している。
他の全ての善きものがそのための手段となるような究極の善を最高善とし、それは「幸福(エウダイモニア)」であるという。 機能と活動:例)笛吹は笛を上手に吹かれることが最も幸福である。また笛は上手く吹かれることが最も幸福である。
徳(卓越性、アレテー):人間の本性を最もよく発揮させる人間固有の性能、卓越性=人間的徳として、知性的徳(理に即した卓越性)と倫理的徳(現実的な事柄に関する実践的能力)をあげる。 知性的徳
人間が他の動物から区別されるのは思考的部分によってであるとするなら、知性的徳に即した活動こそ最高の活動である。
知性的徳の中でも勘考的部分(実践知)よりも認識的部分(理論知)に基づく活動がより純粋・高次であり、そして認識的な知性的徳に基づく魂の活動とは観照である。何かを目的としてなされる活動は実践的活動である。したがって他のもののためではなくそれ自体が目的であり、自足的であるような状態を最高善とし、観照こそが人間が実現しうる最高の幸福であり、人間の目指すべき最高善は観照であるとした。
倫理的徳
観照的生活を理想としながら、人間を「ポリス的動物」と捉え、勇気、節制、寛容、寛厚、豪壮、矜持など、対人関係において要請される魂の徳、卓越性を倫理的徳とした。 そしてアリストテレスは徳は性状(ヘクシス)であるという。2、3回勇気のある振る舞いをしたからといって勇気があるとはいえず、善き行為が習慣づけされて固定化されて初めて性状(ヘクシス)になる。 1106 a
中庸
行為のよさは常に超過と不足の中にあると考え「徳は中庸である」というのがアリストテレスの倫理学のテーゼである。
例)勇気:恐怖と平然の中、節制:放縦と無感覚の中、矜持:傲慢と卑屈の中
正義
「正義とは人々をして正しい行為の実践者たらしめるような、すなわち人々に正しく行為させるのみならず、正しいことを願望させるような性状である」(『ニコマコス倫理学』E1. 1129 a 8)と定義した。 ・合法的正義 遁走しない。人を罵倒しないなど
・均等的正義 ①②
①配分的正義:配分の公正さ。ある人が他の人の2倍の値打ちがあるなら他の人の2倍のものを得て然るべき。
②是正的正義:偏りを是正して均等化する。ある人物が他の人物から不当に多くを得た場合は、その不当にとられた分を前者から取り上げ、後者に補填することで正当性を回復する。
国家
・「人間は本性的にポリス的動物である」(『政治学』A1. 1253a 2) 人間はひとりで生きられる存在ではなく、共同体を形成することによってはじめて自足を実現しうる動物である。
国家は善き生活のためにあるべき共同体であり、国家全体の善を目指して組織、運営されている国家が本来の国家であるとした。
・アリストテレスの念頭にあった国家とは当時のポリスであり、善く生きるのに自分たちだけで足りるだけの国土と人口というのが基準であった。
具体的には集会で一望のもとに全国民に演説することができる人口と、一望のものとに見渡すことのできる国土を有する国家である。
・アリストテレスは人間には本性的に支配するように生まれついているものと、支配されるように生まれついているものに分かれるとし、主人が支配し奴隷が支配されるのは、魂が支配し、身体が支配されるのと同様に自然的なものだと考えた。
奴隷は支配されることによってはじめて高尚な価値に奉仕することができ、徳に参加できるのだ。
・国家には農民、職人、商人、軍人、富者、神官、判定者(行政官と裁判官)と奴隷が属する。
このうち軍人と判定者と神官のみが国家の構成部分=市民と見做され、そのほかは国家の部分ではなく従属物であるという。
なぜなら、善き国家においては市民は知性的卓越性を発揮するために閑暇な生活を送るべきであり、農業や商業に携わるべきではないからである。
このようにアリストテレスの国家論は当時のギリシャの因襲的な国家観を代弁しているにとどまる。
『詩学』
今日に伝わる『詩学』には欠落があり、十分に展開された彼の理論としては悲劇論のみである。 詩作、劇作、音楽といった芸術における創作や表現活動は全て模倣によってなされ、芸術の本質は模倣(ミメーシス)にあるというのがアリストテレスの芸術論の出発点をなすテーゼである。 詩作
模倣といっても詩作においては実際に起こった個々の事柄の再現ではなく、蓋然的にか必然的にか起こりうることの模倣であり、過去の事実の記述である歴史と区別する。
歴史の対象は事実であるが、詩作の対象は事実によって表現される本質・普遍であるということができる。
悲劇
悲劇とは、合唱隊を伴った舞台上で、俳優の演技によってなされる優れた人間の運命に関する完結した一定の大きさを持つ模倣である。
・悲劇は一日に3つ上演され優劣を競われたことから、3つの悲劇を1日でできる長さというのが外的制約であるが、内的観点からアリストテレスは悲劇の長さはその全体が一度でよく記憶される程度のものでなければならないとしている。
・悲劇は恐怖と同情の念を喚起することによって情念のカタルシスを成し遂げることが目的である。 ・その筋書きは徳や正義の点では普通人と変わらないが、名声や幸運の点で普通人よりも恵まれた人、例えばオイディプスのような人物が幸運から不運に、それも自身の悪徳によってではなく、何らかの過失や運命によって転落するといった筋でなくてはならないという。この場合にのみ見るものは恐怖と同情の念を催し、自己の中の情念(パトス)を浄化する。 ・アリストテレスは悲劇の6つの要素として筋、性格、思想、台詞、扮装、音楽をあげている。
悲劇にとって最も大切なものは筋である、なぜなら悲劇は人物の模倣ではなく、行為の模倣だからである。
(その他の序列は性格⇨思想⇨台詞⇨音楽⇨扮装)
・また筋は単純なものよりも逆転と発見を含む複合的なものが良いとした。
以上をまとめアリストテレスは悲劇をこのように定義づける。
「かくして悲劇とは、その諸部分において種類のそれぞれ別である快く色付けされた言葉によるが、演技することによってであって、朗詠によるのでないところの、同情と恐怖とによってそういった情念の浄化をなし遂げる一定の大きさを有する厳粛にして完結した行為の模倣である。」(『詩学』6.1449 b 24)
アリストテレスによるプラトンのイデア論批判についてはまた今度書くかもしれない・・・