自分がかつて通り過ぎたところにいる人について
「自分がかつて通り過ぎたところ」というのは、レトリカルな表現だ
もしも、誰もがみな同じ道を通るのだとしたら、自分がかつて通り過ぎたところに他の人がいるということはありえる。しかし、誰もが同じ道を通っているわけではない。
ネット上の議論を見ていると、同じような論理の同じような主張が見られることがある
よくあるのが独我論とか
仮に、かつて独我論を信じ、かつ、独我論がまったく"無意義"だと悟った人がいるとする
その人からみた独我論者って、何なんだろう
その独我論者は、すでにそこを通り抜けた人にとって、「かつて自分が通り抜けていったところにとどまる人」だろうか
なにかちがう
ちがうけど、ちかい
ある種の侮蔑の感情が生じるだろうと思う、
苛立ちであるとか
日常ではよく侮蔑の感情をみかける
自分よりもぜんぜん手前にいる人、自分、自分よりも断然先を行っている人
このひとたちがともに働いたりしている
先に進むことは目的ではない
先に進まなければ耐えられなかった、という生活はありえる
先に進むことで道徳的に堕落するということもあるかもしれない
自分のしていたことが失敗だったと気づくときがある
例えば私が2012〜2020年まで書いてきたものはすべて失敗だった
8年くらい間違いつづけるということはぜんぜんあるし、なんなら30年くらい生活を間違っているかもしれない
しかし、間違えているあいだも書くことはできているし、生活もできている
生活が続く、ライティングも毎日なされる
これって怖くない?とおもう
2012年から私が間違え続けていたとして、死ぬまで間違え続けるということだってありえる
And I am not afraid to make a mistake, even a great mistake, a lifelong mistake, and perhaps as long as eternity too.
しかし、「失敗」ってなにの失敗?
「失敗」という表現は的外れかもしれない
人の役に立つことをしよう
お金を儲けよう
これらは時間稼ぎのように思われる
いや、時間稼ぎではない
将来に賭けるということか
問題の先延ばしではあるけど、時間稼ぎとはちがう
例えば、こういう問いを持つことはあるか
なぜ、ウィトゲンシュタインの哲学の目的は癒やしであると宣言されるのか?
この問いと、カフカの門の話とは関連しているような気がする