精神的失語についてのぐるぐる(kluftrose)
※少し編集
※オチとして病院間に合わなかったけれどまだ明日があるぜ(明日があるぜ……)
※編集に未だPorterを使っているのでタイトルに名前を入れがちなの許してね
実家の蔵書is邪魔(家の価値観)が頭を席巻しており、内容物やそれを買った時の自分の心を忘れていた。
(居間の続き部屋、兼、父の寝室、昼は私の座ってある程度一人になれる和室絨毯敷、何畳だろう。その部屋の足元に私の本はニ、三段に分けて積まれている。母の服が挟まっていたりカオスである)
そんなことより失語。
19歳の時に、辛い思いをした、とジメジメしく書くのは好きではないのだが自分の来し方を説明するのに外すことの難しいピース。
それを友人たちに相談したらさらにとっちめられ、そのことを他の友人に相談した時に、周りの友人たちの気持ちが分かる、とメールに書かれているのを読んだ時に私の頭は本当に「ガーン」と言った。
キーボードに置いた手は震えた。
あのあとから、元々無口ではあり緊張症だった私は、別の方向からヒビを入れられた。
このことは何度も語ってきたことなので自分の中では「あーはいはいまた言ってますね」扱いになっている。しかしそれは一種の痛みからの逃避かもしれない。
トラウマという言葉も私には手垢がついて感じられて嫌いな言葉なのだか、使わないわけにもいかないピースの一つだ。 よくトラウマ体験そのものは語ることができない、その周りを回るようにしか語れないというが、私の感じている失語感というのはこれに似ている。
ここら辺について語りだすと私の半分以上が、はい言い訳始まりました〜とハヤシダすので、ハヤシダさんisだれ。
未だに根深い問題だなあと書いていて実感する。私が私の味方になれていない。
あとで清書をしたりなんかするのかもしれない(読んでもらうためにはそれが必要)。
そして失語。
トラウマ後成長(私はトラウマブーストと呼んでいる)というのは私にもあって、ほとんど別の人間かと思うほど(まあ青春期でもあったし)私はたくさん動き回っていた。 あ、午前の病院行き忘れました。担当医午後なのでいいや。
ちょっと上読み直してきます。
文脈に従うと言い忘れがある。
ことば。
自分の出自が社会的には隠されるべき「病的」来歴であること、それに基づいて語ることはある程度他者を不快にさせることを前提とする。
ことばは我を失う。
21歳からほんの2年くらいホームページに詩を書いていた。韻律のある詩ではないので「詩のようなもの」と言っていた。
詩は散歩や歩行と親しく、どこかへ通う歩き道を失ってから、なのか、私は詩を書くことができなくなった。
ここでまた遅れての失語。
専門学校で頑張って書いていた小説も、私的に書いていたファンタジーも、陰惨さが入り込んでくるのが嫌になり、書けなくなった。
こっちは長い失語となった。
アープラのおかげで200字作文などにぽちりと参加できるようになり、副詞や形容詞、接続詞の辞典を(正確には副詞辞典ひとつ)眺めることによって、薄い夢の中で勝手に500文字作文のための文が組み立てられはじめた。
それが1、2年前。
20年近く、愚にもつかない日記を書き続けることはできたが、それはほとんど恨みに尽きて、時折清いものを発見し、また恨みに落ちた。
書くことからの反射に疲れて人形を作ることへ道を変えているうちに、編集者の恩師は50になるそこそこで逝った。
死に別れ。
この時これを知るのに2年かかり、お葬式や他の同期との気持ちの共有などができず、恩師への視線も距離感も元々多少違っていたために、かなり引きずった。
私にとっては親のような存在だった。
情緒の発達の遅い私の手を物理的に引いて、様々なことを喫茶店で語り、社会はそんなに怖くないよ、と、職員室が怖いという先生のくせに、諭してくれた。
私は5歳の時に祖父を突然死で失ってから、死に別れに弱い。そりゃ誰だって弱い。
一昨年の年末に母方の祖母が95歳で元気だったのが突然の腸炎で逝き、その母の死を考えながらぼんやりと落ち込んでいつつ、最後まで生きることも希望も諦めなかった母が、昨年の12/17に大動脈瘤破裂で亡くなった。
発見したのは私で、15分前に電話をしていたのも私だった。
成長の遅い私たちにとって、みんな、早く逝きすぎる。
母は1年間に3回入院して(骨折、帯状疱疹、腎臓の検査入院)不安だからと最後の3ヶ月間、私が法律で許される範囲で実家に帰ることのできる期間、病院の通院同行を頼まれた。
自分のこともあって、脚が弱れば死は近くなることを知っていたから、私は母の命がかかっていると思って、その3ヶ月のうちの月1週間だったり、を共に過ごした。
その時間をくれた母、あるいはなにかに、私は感謝をしている。
死に目には会えなかったけれど、私は見送ることができた。
(祖母の看護にも行き、少しだけボケかけていた祖母とも、充分コミュニケーションを取ることができた)
祖母や母がバルコニーを見ては、スズメたちが植物(特に菊)に集まってアブラムシを食べたり、バケツのお水を飲んでは手すりで嘴を左右になすりつけて拭くのを数えては、喜んでいた。その植物たちも、バルコニーの全面改修であらかた捨てられる予定だそうだ。
残りの家族はスズメなんか見ない。
祖母が、58で祖父を失ってから手を掛けた庭を私は喪失するだろう。
(生前の祖母は自分で全てを片付けようとしていたから、祖母の遺志でもあるので仕方ない)
仕方ないが、昔祖父がたべては酸っぱいと言ったイチゴはまだ咲いており、私と同い年のガジュマルも生きている。
家を34歳で出てから今年の半ばあたりで10年。(歳なのよー)
グループホームを追い出されて入ったDV被害の人や家のない人の入る施設と、アパートに転居した今も繋がっていて、4月からの担当さんは懐かしいカウンセラーの方で、10日に1回、電話をくれるという。心配されているな、ということが、今はありがたい。
涙話ばかりになったけど、トラウマ後の20年すこし、家出後の10年は、さまざまな公的機関との駆け引きや交渉、それらの挫折の繰り返しの中に時に埋もれそうになる。
ここには詳しくは書かないけれど、私は今奇跡のお隣さんで、ある意味では幸福で、そして決して届かない目標に引き裂かれながら、教えられてこなかったことを自分に教えようと足掻いている。
20代は小劇場を回ったり(大好きな人から見ればほんの少し)、映画を撮る人たちの間に紛れ込んでとんと役に立たなかったり、8ミリフィルムの機械を譲ってもらい損ねたり、銀塩カメラにハマったり(ライカⅢ-gを記憶違いでなければ持っているが、フィルム装填が難しく、数回しか使っていない。ドイツ製の機械のネジの精密さにはとても驚く)、トイカメラにハマったり、それでも全然良い写真が撮れなかったり、引っ越しをして脚を弱らせるまではいろんなところへ行った。
私は少し濃いめのアスペルガーで、引っ越しに弱く(地図を失い、方向感覚を失う)、計画を立てるのが苦手なタイプらしい。中退したデイケアが教えてくれた少しのことだ。
実家は東京の真ん中に近く(経済的な)、便利なところに生まれすぎて、地図がなかなか書き換えられない。
今考えるといかにお金持ちな区だったか(舗装道路や区画整理)元長屋街だからだけど、よくわかる。
でももうそこに帰る方法は私にはない。
母は生まれた街だったそこで好きな川っ風と共に生きて死んでいった。
おばあちゃんもおかあさんも勝手だねえ、と、恨み言も仏さんにゃ言えやしない。
私たち家族は会話をしない。
恩師が亡くなった時も「そう」だけだった。
母のことは少し姉と話すことはある。
これでも高校生まではお姉ちゃん子だった。
姉は横暴だが優しい。
あとは汲み取ってください。
開始時間を記録しなかったけれど1時間くらい書いているのかな。
また上に戻ってみよう。
失語について、あらためて下書きした上で何か書こうかと思う。
このページは話があちこちに行きすぎているように今は思える。
この失語。
原因はあるようで一つではない。
どれかのせいにした時に私は自分を失うだろう。
もう4ヶ月経つのにまだ、あの強くカリスマ的で背筋を伸ばし、晩年はいかんともしがたく床でごろごろしてたまに生前の犬に襲われていたかわいい母は、いない、ということが変えてしまうものにまだ耐えられないでいるのだと思う。
トイレに行きたくなったので終わろう。
タイトルを変えて、また変なこと書きたくなったら、伏せ字なんかしながら書きます。
提案してくれたしまんさんありがとう。
2022/04/14