箱男と書く/書かれること
安部公房の魅力:ヤマザキマリさん「ジェンダーに依存した解釈を読者に求めない、人間として書く」 箱男みたいなラノベ知ってます!主人公(語り手)が犯人だと思って事件が起きてると思ったら、主人公と同じあだ名の別の登場人物が実は犯行をしてたっていう。
イスラム教の一部の女性にとっては非イスラム宗教者が羽織ってる黒のヴェールのようなものを脱げとというのはセクハラらしい。つまり箱男(女)が常識的な世界観では箱を脱げというのはセクハラにあたるという世界ちょっと面白そう。
書かれていることはあくまでも箱男の視点だからつじつまとかは合わないところもあるのかもしれない。
これを書いてる全部が箱男を名乗ってる僕の妄想(机の上で書いてる)説最近結構好きです。
夢オチみたいな。
それにすると、最終的に机の上で書いている安部公房にたどり着いちゃう…w
夢オチに近いけど、ぼく=安部公房であるかはわからないけど、安部公房が想定した語り手の妄想説。
でも、机上の空論説全然あると思う。脳が疲れ切ったときそれで納めてる。
机上の空論も含めて書き手をどっかに落ち着けることに不満がある。
というかそのように作者性を作者性そのものとして差し出す装置が箱なんじゃないのみたいな。
話自体をメタフィクション化してる、みたいに上の論文に書いてました。
安部に関して、批評家たちはしばしば、一つの具体的な物を隠峨として用い、 その物を中心にして話を作る、という安部の技術について言及してきた。 しかし、安部の幾つかの小説において、安部があるテーマを具体的に表象する目的のみのために一つの物体を用いるだけではなく、テクストそのものをメタフィ クション的表象し、特に読者とテクストとの関係を表象する目的のために物体を使用するという点が見逃がされてきた。
草稿のBと浮浪者の争いの話みたいなね。
箱男Bを浮浪者が襲撃する。死体が一つできた。Bが浮浪者を殺したならそのままでいい。しかし浮浪者がBを殺した場合でも、殺した後箱をかぶれば匿名化して殺人に問われることはなく、元箱男のBの死体は浮浪者として処理される。どちらにしても、BはBのままなのだ、という話。で行き倒れ十万人の沈黙はこの話の残滓なのではという考察がある。
読み方は人それぞれだと思うので、このように申し上げさせて頂き恐縮なのですが、私はできるけスッキリさせたい性分にあるものですから…答えがないことも承知しておりますし、答えを求めすぎることがナンセンスだとも承知しております。
贋医者「ここに書かれてることは真実です」→生年月日実在しない→すでに嘘やんけ!ってなりました。
どの語り手が正確なことを語っているかが分からない。
私は見る・見られるの関係にほぼ興味がなく、ひたすら書くことについての小説として箱男を読んでいたと思う。
初読の時、箱男はピエールメナールの続きとして読んでた。
文章はいくらでも書き写せるものです。箱男に限らず。
複製ですか
安部公房は箱男を書いた以上に箱男の草稿を削って流通する箱男の形にした人間ですからね
箱男は感染しますよ(体験談)
会話文がほとんど出てこない。というよりも、会話文と地の文が明確に分けられているように思えます。(会話文はP47~49、P83~91にまとまって出てくる)
[追記]そうでもなかった。でも100ページあたりまではそんな感じ。あまり必要じゃなかったかもしれないですね(笑)
そして83ページから始まる会話文の序文≪別紙による三ページ半の挿入文≫、「(紙が違うだけではない。はじめて万年筆が使用され、字体もあきらかに違っている。……)」。この部分は語り手(主人公の箱男)とは異なる人物が書いたという暗示か?
書かれた方法や字体の違いについての言及はたびたび見受けられるので、おそらく大きなポイントですね。たとえばP118や、P128などにもありますが、これらのそれぞれが何をあらわしているのか(誰が書いているのか)は検討しがいがありそうです。p28にもある。……字体はそっくり前のままである。
P128にもありますね。「(欄外に赤字で書き込みがあり、この行間に挿入の矢印が入っている。……。基本、語り手は主人公である箱男なんだろうけど、誰か(複数人いるかもしれない?)があとで加筆したことを示しているのかな。
安部公房は『箱男』で実験小説を書きたかったんじゃないかという気になってきた。P152~P159の≪Cの場合≫は終始、「君」と語りかける形式で書かれている二人称形式になっていると思う。
確かに、作中では一人称(大半)・二人称(《Cの場合》、《死刑執行人に罪はない》)・三人称(《新聞記事》、《Dの場合》)が使われている。ちなみに、三人称は語り手が表面にでていないだけともいえる。
参考:人称の問題→横光利一『純粋小説論』によると、『四人称』つまり「自分を見る自分」自意識からの視点が(当時の)新しい小説には必要だという。 シュルレアリスムとの関係。文学作品として落ち着いた印象。純文学的な伝統も放棄していなさそう。
たとえばP28、70などの、実験的な書き方。
メタな感じ。描写を想像して物語に没頭している途中で現実世界に引き戻される。
前衛的な内容を、伝統の枠内にある手法で書くところに特殊性があるのかもしれない。
安部が言ったように「あの小説を書いて いる男は罪を犯した男ですから、したがってぼくがあの小説を書くためにその 罪を犯したことになると思います。でもあの男の正体はだれにもわかりません」②
②安部公房、ナンシー・ s・ハーデイン/長岡真吾訳「安部公房との対話」、 fユリイカJ1994年8月、 126頁。