第三回読書会議事要綱
課題テキスト1
主な立論者
議論概要
ヴァリスのテキストを巡って参加者からいくつかの読解が提出された。ひとまずはtsuyuによるものだけを示す(後に可能であれば他の説も編集予定)
tsuyu
tsuyuはヴァリスのテクストは不確実性に満ちていると指摘したうえで、その代表を語り手の位置から説明した。作中で語り手の位置を占めているのは「ぼく」であるが、「ぼく」が作中のどの人物に帰属される、あるいは帰属されないかは定かではない。
「ぼく」はホースラヴァ―・ファットを作中で自称するが、後にこのファットなる人物はフィリップ・ディック(作者と同名の作中人物)の分裂した人格であることが明かされる。しかし、語り手をファットであると解釈してもディックであるとしても矛盾する箇所がテクストに存在すること、また全編に渡って作中の出来事や情報について断片化された描写が続くにも関わらず、時系列などは矛盾なく整理できることから、tsuyuはディック(作者)が意図的に語り手の位置を確定できないよう書いたと結論づけ、そのような試みを行った理由をテクストの位置を不確実なものにするためだとした。
ディックの実体験をもとにした半自伝的小説『ヴァリス』はそのままでもフィクションと言い切るのが難しい。ディックがどこまで実際にあったことを書き、どこから創作として書いたが定かではないからだ。 そのように現実と非現実との境界線上にあるテクストを、どちらにも決定不可能なものにすること。ディックはこれをヴァリスにおいて成し遂げようとしていたとの考察を行った。
くま子
主人公のファットがフィルの人格の一部であることは後々に小説内で示されているが、主要人物であるケヴィンやディヴィッドもまた、フィルの人格の一部であると考えた。つまり、ファット=フィル=ケヴィン=ディヴィッドなのである。小説を読み進めていくと、ファットは精神病棟に入院しているくらいの謂わば気狂いであることが分かる。ファット=フィルで既に二重人格であるのだから、多重人格であってもおかしくはない。
しかし、このように解釈すると不可解な点もいくつか散見される。後半で登場するエリック・ランプトンがケヴィンの腕を掴んでいるにも関わらず、フィルが離れたところから見ているかのように書かれているのだ。また、フィルはケヴィンと電話で話したり、彼ら四人で向き合ったりする地の文が登場する。けれども、フィル=ファットであるはずなのに、終盤フィルとファットが電話で会話をしているのだ。もはや訳が分からなくなってくる。
主要登場人物四人が全て同一人物の人格であるとして、もしやランプトンに腕を掴まれたのは結局フィルであり、電話をしたり向き合ったりしているのは彼らの精神世界での出来事を示す描写なのだと考えると、納得がいくような気がした。どういうことかというと、確かに彼らは現実でフィルという肉体を共有しているだが、精神世界の中では個々に分離しているのだ。そう考えると、フィルが多重人格で他三人の人格に精神分裂しているという読みもできるのではないか?
また私が考察したのはこれだけではない。お粗末にもファットのトラクタテを解釈しようと試みた。私は神学に対して全く無知であるが、調べてみるとどうやら『ヴァリス』はグノーシス主義の世界観の影響を受けているようだ。ファットによると、この世界は非理性で構成されている。しかし理性的なものが一つだけあるのだ。それが巨大活性諜報生命体システム、ヴァリスなのだ。 私たち人間は、この世界には時間が流れており、また空間を感じられるのは当たり前のことだとみなしている。しかしその当たり前から抜け出す方法が存在するのだ。
そういえば作中において、ファットはヴァリスからのピンクの光を受けたことで三つ目人に遭遇する(どうやらこれは未来のファットらしいが)。また、フィルが記述する地の文の中で、ファットはLSDによってか、知りもしないラテン語で考える力が少しの間備わった。フィルが書いているように、LSDによってこの能力が身に付いたと考えるのはあまりにも短絡的だ。つまり何が言いたいかと言うと、ファットはヴァリスの光を受けたことで、過去にも未来にもアクセスすることができるようになったのではないか?
そしてランプトンのこの言葉だ。
ランプトンが言う。「とにかく忘れないで。『仏陀は遊園にいる』。そして喜ぼうとしなさい」(kindle 68%)
私はこれらの部分から、「梵我一如」という仏教の概念を思い出した。
梵我一如とは、梵という宇宙を支配する原理と、我という個人を支配する原理が同一であること、または、これらが同一であることを知ることにより永遠の至福に到達しようとする思想のこと。古代インドにおけるヴェーダの究極の悟りとされる。(Wikipedia「梵我一如」)
読者は一九七四年三月に、トマスというファットの優位の存在がファットの精神に入り込んできたことを覚えているはずだ(あとでどこかへ消えてしまったようだが)。トマスがファットに語ったことを、ファットがフィルに話している場面がある。どうやらトマスは肉体的な死後に自分を再構築する方法を見つけ出していたらしい。時間を超越し、死の圧政から解放されたのだ。それは梵我一如により時間と空間を超越したからに他ならない。初期キリスト教徒は皆この方法を知っていたそうだ。作中の言葉で言うならば、トマスは第三の目を開くことができたのである。
ファットはヴァリスの光を受けたことで、この世界の真理に気がつくことができた(ヴァリス光線は放射線であるから、ミニはヴァリスの光を受けすぎて病気になってしまったようだが)。ヴァリスはその為に作られた生きた情報システムなのだ。
五番地による意見 とりあえず青い光とピンクの光について
・『ヴァリス』に関する抱括的な解釈を避ける傾向が私にはあった。他参加者と共に、まずは文章上はバラバラになっている時系列の把握に取り掛かった。
・ボイスチャット終盤にて、参加者の1人が「p177の光は青色である(p29やp354ではピンクの光なのに)」と指摘。私はこれに食いつく。
・1974年3月の青色の光は、「セントエルモの火のよう」な光と、ピンクの光には何か違いがあるのか。
・p358でファットは、「1974年にぼくはヴァリスを体験した」と述懐する。すぐ後につづけて、「だって最初の遭遇で、ぼくはほとんど死にかけた」とも(p358)。
これに関する記述は、p175からp176にある。血圧が異様に高まり「死にそうな水準」だったとある。
しかしこうなると、ピンクの光は何だったのか。ヴァリスとは無縁なのか。
無縁ではないが、ピンクの光はおそらく、「ヴァリスとの遭遇」ではない、とは言える。
・ファット「かなり目が眩んでるんです。ピンク光線が一条ry」
リンダ=ランプトン「ヴァリスが直接情報をあなたに投射したのね」(p352)
この場面は、ファットがソフィアからの指示を受けながら、ランプトン夫妻とミニから離れる場面だ。そこでは青い光のことは言われず、また、ランプトン夫妻が製作に関わった作中映画『ヴァリス』でも、青い光ではなくピンクの光が出るのみだ。
・「夜明けに向かって歩くにはスリッパをはかないと」(p370)。夢でファットが出会った女性が歌ったこの一説におけるこの「夜明け」に関して、ファットは、アウロラは夜明けを擬人化したラテン語だと言う(同上)。さらにそのオーロラから、「セントエルモの火」「シマウマやヴァリスの取った姿」が関連づけられる。そしてこの女性がソフィアだとファットは或る出来事のあとに悟る(p373)。
このように、ソフィア≒ヴァリスとの「遭遇」の場合、青い光が関連して登場する。「あの子の声は1974年以来頭の中で聞こえたAIの中性的な声だ」(p331)という、ファットによるソフィアへの評言も、青い光がピンクの光よりもソフィア≒ヴァリスと「近い」ことを示唆している。
・かと言って、ピンクの光がソフィアと無縁であるわけではない。上述した、ランプトン夫妻らから逃れる場面でも、「ピンクの光が一閃し」て、ファットの目が眩む(しかしすぐ側にいるデヴィッドはその光に気づいていないようだ(p354))。
これに関してファットは、「ヴァリスから重要な支援を受けた」「あるいは、ぼくとしてはむしろ、聖ソフィアの支援を受けたと思いたい」と述懐している(p357)。また、ピンクの光は、ファットの息子のクリストファーの未発見の持病の情報を与えるなどしている。したがって、ピンクの光はソフィア≒ヴァリスと無関係なわけではない。
SHUNASHUNA 「シマウマ」からヴァリスとその周辺を考察する
小説『ヴァリス』には「シマウマ」という言葉が頻出する。この小説がアメリカの作家に書かれたものであるため、シマウマ ”zebra” が英語において単なる動物を指す他にスラングおよび慣用表現的なものが存在していて、日本語話者が取りこぼしている意味があるのではないかと疑った。wikiディクショナリーに下記の記述を見つけた。
zebra
1. シマウマ。
2. (スポーツ、 俗語) 審判。
3. (医学、 俗語) 奇病。
医療教育上の格言 "When you hear hoof beats, think of horses, not zebras."
(蹄の音を聞いたなら、シマウマではなく、まず、馬のことを考えろ。⇒「ありきたり」の症状を見て、いきなり珍しい病気を疑うのではなく、通常の病気を疑え)より。
4. (卑語、 軽侮語、 俗語) 両親が別種の民族である人、特に白人と黒人の親を持つ人。
医療教育上の格言"When you hear hoof beats, think of horses, not zebras.”
(蹄の音を聞いたなら、シマウマではなく、まず、馬のことを考えろ。
⇒「ありきたり」の症状を見て、いきなり珍しい病気を疑うのではなく、通常の病気を疑え)
シマウマや、ホースラヴァー(馬を愛する者)という言葉が使用されているのは、もしかしたらこの格言が念頭にあったのかもしれない。シマウマとは小説上では ”神” のことであり、格言上では珍しい病気のことをいう。ホース(ラヴァー)は小説上ではぼくの別人格であり、格言上では、通常の病気を指す。
14章で、ぼくはホースラヴァー・ファットにこう言い放つ。
「『シマウマ』なんていねーんだよ。お前自身なんだよ。自分自身も見分けがつかないのか? お前だ、お前しかいないんだ。応えられていない願望を、グロリアが自分でくだばってから、満たされない欲望を外に投射しただけなんだよ。その空虚を現実で埋められなかったもんで、妄想で埋めたんだよ。・・・」
シマウマ(=ヴァリス)を誰とするか。ファット自身が語るままにヴァリスをヴァリスとして信じるか。それとも、ヴァリスはファットから生まれた妄想に過ぎないのか。この格言に従えば、「馬のことを考えろ」。つまり格言的にはヴァリスはファットによる妄想である、という見解が賢明だ、というメッセージを感じないこともない。
馬のことも考えろ=ホースラヴァー(馬を愛す者)自身のことも考えろ とかいろいろ妄想できる
By アレクセイさん
シマウマとはファットが1974年3月に遭遇した神秘体験であり、作中で何度も言及されているように、ヴァリスである。シマウマのことを”神様”と言い換えたり、”シマウマはあいつ流の、全能の聖なる唯一者の呼び名”という記述もある。救済者を探すことがシマウマから与えられた使命だという。
ファットはグロリアやシェリーが死んでしまったことを受けて神様を信じつつも疑念に駆られていた。
また、様々な二元論を提示しては、その二元論の提携関係を終わらせて、叡智・第五の救済者が勝つことを祈る、という旨を述べている。
ファットは現行の宗教や思想に不満を抱いていた。その不満を解消してくれる何かを追い求めていた。
それが「第五の救済者」だったのだ。
ファットはその後、第五の救済者を見つけることができる。映画ヴァリスの出演者リンダとヴァリスの娘、ソフィアである。彼女はファットが苦しんでいるときにピンクの光で彼を癒していた。ピンクの光の正体は第五の救済者でありソフィアだった。
一方、ファットは青い光をみたことがある。これが起きたのはファットが一九七四年三月に神秘体験をしたときだ。つまりこの青い光はソフィアの父、ヴァリスーシマウマー神様なのではないか。ヴァリスが救済者の娘の到来を告げた、ということだ。
ファットは救済者として、神ではなく、”人間” を求めていた。
ソフィアも「神様とは人間自身」と述べているように、それがディックの世界観なのかもしれない。
そして、訳者あとがきにもあるように作者ディックは死別した双子の妹がいた実体験があったためか、死にゆく女性(グロリア、シェリー)に執着して救おうとする。そしてソフィアも結局死んでしまう。
釈義47「二源宇宙創生論」によれば、双子の女(ハイパー宇宙Ⅱ)の死を悼んで、健康な双子の男(ハイパー宇宙Ⅰ)が2つに分裂して「神の王国」を作れたら悲しみは去るという。つまり、フィルとファットが分裂したのも、そしてもしかしたらヴァリスやソフィアがフィル自身の分裂した妄想かもしれないのも、全て、死にゆく女性たちから始まり、そして最も求めているのは、神ではなく ”人間”というか”女性”なのだろうか。
課題テキスト2
読書会運営についての反省点
・レジュメは作るべき
・テキストの訳は必ず統一すべき