礼儀と熟慮は似ているところもあるが違う
礼儀と熟慮は似たところがある久住哲.icon
礼儀は、起こる事態をあらかじめ定めることによって、誰もが道を辿れるようにした工夫であるだろう。 礼儀正しい振る舞いは、何かが起こる前に、定められたことがすでに起こったという体裁で、その起こったとされたことの道を辿る。 例えば、なにか差し入れをもらう場合
まず「そんな、頂けません」と断ることがあり、こうして一旦断ることが礼儀正しくみえることがある。
贈り物をそのまま受け取ることは、〈自分は贈り物をもらって当然だ〉という傲慢な心の表れと見なされうる。 この表出を否定するために、一回断る。
〈私は贈り物をもらうような身分ではありません〉という心を演出する。
こういった振る舞いは、本心からなされるとはかぎらない。
一旦は断るという振る舞いを常のこととし、これにより謙虚な心という事態が起こっているということにする。 こういった事態の事前規定は、贈り物をする側にもあり、例えば贈り物を断られても「いやいや、そんなこと言わずに、どうぞ」と自分の意思を押し通すことが多い。
相手の拒絶が礼儀上のものであるということを踏まえているのだろう。
このようにして、礼儀は、〈表面上の拒絶を拒絶と見なさない〉という態度を可能にする。
これも、表面的なものに惑わされずして起こっている事態にもとづき断行することである。
これは熟慮と同じだ。
だが、そこにはそのとき限りの事態の洞察はない。
事態はそのつどの状況から見抜かれるのではなく、普通のものとして既定されている。
この既定により、思い違いの少ない滑らかなやり取りが可能になる。
もっとも、こういった礼儀の類も知識である。
その都度の状況において、あらかじめ予期していた事態と現状の違いを認識している。したがって、過程は既定されているが、解釈違いを起こしてもどの様に対応するべきかということは定まっている。かりふぁ.icon過程を実行できないほどの解釈違い、酸っぱい葡萄の童話とか、は熟慮が足りない様な感じはある。