短歌を読む(過去投稿書き直し)
つはぶきの黄色ぬばたまの夜にして 土に低くし湧きし花びら
補足情報
つはぶき 花の名前。黄色い花
ぬばたま 枕詞。この表現の後には黒いものが来る。今の場合、夜。
にして 場所を表す。「〜において」という意味。
印象
リズムがすごい久住哲.icon
この歌のリズムのインパクト
意味的に「つはぶきの黄色」でまず切れる。つまり最初の9音で一旦切れる。
すなわち、5音ではなく9音で「つはぶきの黄色!」と言い切るところから始まる。
第二句で句割れ。
$ \footnotesize\underbrace{つはぶきの}_{5音}\underbrace{黄色\quadぬばたま}_{8音}\underbrace{の夜にして}_{5音}
第二句の句割れで「黄色」と「ぬばたま(の夜)」のリズム的位置が近づいている
久住哲.icon解釈
「つはぶきの黄色」と「ぬばたまの夜にして 土に低くし湧きし花びら」で2分割される。
根拠:
「湧く」の主語は「花びら」であり、「夜にして」は「湧く」を修飾する。
「つはぶきの黄色」は「花びら」と同価。
変換すると「つはぶきの黄色い花びらが夜に土という低いところに湧いている」
だが「黄色」は形容詞ではなく名詞である
「つはぶきの黄色!」でまず、夜に浮かび上がる黄色の美しさに対する驚きの籠もった感動が表される。次いで、この感動が比較的冷静に分析される。
短歌特有の文体
この歌の文体は独特だ
独特な点
最初の9音(つはぶきの黄色)と最後の4音(花びら)が同じであるということ。普通の文章ではこういうことが起こらない。普通は主語ではじまり述語で終わる。だがこの歌は、主役で始まり主役で終わっている。
過去の久住哲.iconは、次のように思っていた:
短歌独特の文体をとることで、表現上の無理を通すことができる
これにより常識的な文法では表現できない美を表すことができる
かたはらにおく幻の椅子一つあくがれて待つ夜もなし今は
評
久住哲.icon感想
自分の読解力だけでは難しいので、↑の吉田隼人の評を頼りにしつつ。
これは意味的には次のような語順となるのが通常だろうと思う(久住哲.icon)
「今は夜にあくがれて待つこともなし。幻の椅子を一つかたはらにおく。」
しかし歌の順番は違う。
$ \footnotesize\underbrace{かたはらに}_{5音}\underbrace{おく\quad幻の}_{7音}\underbrace{椅子一つ}_{5音}
このように上の句は「5・7・5」で構成されているが、
第二句が句割れしているので、「7・10」という構成も見て取れる。
最初の一息で「かたはらにおく」と読むことで、なんかさびしい。
こういうのを四拍子で「かたはらに〜〜〜おく幻の〜椅子一つ〜〜〜」と読むと風情が失われると久住哲.iconは思う。そもそも、「おく幻の」なんて文章の区切り方はしないだろうし。
下の句はしっかり「7・7」。
上の句の句割れにより生じたうねるリズムを安定させている。
久住哲.icon感想
この歌を読んで、句割れを練習したいと思った。句割れや句またがりは意識的に練習しないとなかなか作歌のときに選択肢として出てこない。
また、この歌などがきっかけで、歌のなかの切れ目(あるいは切れ目のなさ)に注意が向くようになった。
久住哲.icon感想(過去)
自分なら「黄色が湧く」と言ってしまいそうだと書いていた。
こう言いたい理由は複数ある:
おそらくファーストインプレッションは「黄色が湧き立っている」といったものだろうから、それをストレートに表すと、「黄色が湧く」になるから。
もうひとつは「花びらが湧く」ってなんか変だからというもの。「花びらが湧く」のは変だが、「黄色が湧く」なら納得がいく……と自分は考えていたようだ。
過去の自分は、「黄色が湧いている!」という感動を三十一文字へと拡張したのだと分析。この拡張の過程で、「黄色」と「湧く」は位置的に分割された。この過程から久住哲.iconが学習したことは、「最初の印象をそのまま言葉にしなくても、歌全体でそれを表現しさえすればいい」ということだった。最初の印象が「黄色=湧く」だったとしても、これを主語述語で繋がなければならないわけではない。最初の単純なインパクトが「黄色=湧く」だったとしても、「黄色」という文字と「湧く」という文字が近接している必然性はなく、この近接性は別なレトリックによっても表現することができる……ということ。