知る、知ったというのはどの段階で言っていいのか。
●●入門を読んだら知ったと言っていいのか。
「私の●●論」が書けるくらい傾倒して初めて「知った」と言えるのか。
そもそも知った・知っているということは永遠に言えない言葉であろうか。
「知った/知らない」と真っ二つにできないのではないか
異常と正常のように、グラデーションということか。
いやなんか違う気がする。
知っていると知らないは、対立せずに併存するような気がする。
知った/知らない は、対義語じゃないのかもしれない。
それはたしかに思う。
私はカレーを知っている。食べ物であり、スパイシーで、茶色っぽくて、ご飯やナンにつけて食べる食物。
だが「お前はカレーの何を知っているのか!」と詰問されたら、なぜか何も答えられない。
なぜ答えられないのだろう?
たぶん、それが問いではないからだ。
例えば、「私の何を知ってるの!」という不満の表出と、その詰問は形が似ている。この表出に対して「俺は君の名前を知っていて、あと年齢も知っていて……」とは答えられない。なぜならば、その表現は「あなたは何も分かっていない」と言い換えることができそうな、不満の表出だから。
大変腹落ち
問いでは?
自覚的な嘘のないことを前提すると、「お前はカレーの何を知っているのか!という言及に値する知識を相手がもっていると自身で思っていて、自己にはその知識がないと思われている。」という言明が導ける。自己に全くカレーに関する認知の破れが無いことで、その問い質されている知識の心当たりが推論できない。不満の呈示自体は言説を回収するときの、発話者が予期する方向性である。
それは線引きなのか。カレーのここまでを知っていて、ここからは知らない。
線引きがある、という想定が違うような気がする
線引きがあるとしても、その線引きというのは、どこからどこまでがある状態(ないし度合い)であり、そこから先は別な状態(ないし度合い)であるといったことを表示するためのものではなさそう。
では何の線引きなのかというと、「そこから行動に移せるか否か」の線引き。これはある。
この行動には「説明行為」も含まれる。
もちろん、「調理行為」も含まれる。
または味は知っているが、カレーの歴史は知らないとか。 知のマッピングのようなイメージかもしれない。
では、その欠けたピースを埋めるように知識をつけていったら、知った度が上がっていくのか。
じゃあやっぱり知ったはマッピングであるとともにグラデーションで、欽ちゃんの仮装大賞のようにランプがどんどん点滅していって、一定を越えたら合格!として知ったを名乗れるのかもしれない。
じゃあ合格ラインは誰が決めるのか。
カレーだとめんどくさいので著書に置き換えて
著書は、著者の真意を理解したら「知った」と言えるだろう。
一方で、著者が想定していない解釈をしたばあい、「わかってない」となる可能性がある。
しかし、著者の手を離れ、読者に渡った瞬間に著作物は読者のものになる。
作者の思いがどうであれ、その意味理解、解釈は完全に読者に委ねられる。
当の著者自身でさえ、その著作について"正しい"知識を以っているとは言われないだろう。過去の自分の解釈を復元できますか。数学とか数式で記述される主張でさえ、その数式を導くと、この主張の中でいかに嬉しいのかを思い起こすことは困難である。
著者が背後からボソボソ言ってきたとしても関係がない。
こういうことですか?:
「この本が述べていることを知った」と言えるのは著者の真意を理解したときであるが、読者が著書を読むときには解釈が読者に委ねられるので、本を読むうえでは「知る」ということは起こりえず、本はただ「解釈される」のみだ、と。
なぜこのように考えるのかというと、著者の真意をつかむことと、読者が解釈することとを、どちらも「知る」の概念だとすると、矛盾が生じるからだ。
「著者の真意をつかむ」とは?……とりあえずは、あるテキストを書いていたときに著者が思っていた意味と同じ意味を思い描くことであるとする。
この矛盾は、「知る」と「解釈する」をそれぞれ別な概念として扱えば、解消できる。
なので、上のように思った
そのとおりだと感じる。
では、「著者の真意を知ることが読書の目的か?」と考えるとNOだ。意味がないから。
一方で、真意を掴むことを完全に無視した読書はただのエンターテイメントとも言える。
更に言及するなら「この著書に著者の真意など存在しない」という整理も可能である。
自分に置き換えた場合、突き詰めると真意は言語化出来なそうだから。
つまり、「この本は何を言っているのかわからない」ことを「知った」という着地点が存在してしまう。
この場合の「知った」は仮置か。知ったとは永遠の仮置か。Scrapboxの概念に似ていますか。
このときの「知った」は、メタな解釈では。
中身のテキストに対する解釈というより、その本全体に対しての評価である。
だから「メタ」
この場合の「知った」の対象は「自分」であって、「本」に対してではない。
その本を、生きるうえで出会う様々な本のなかで「訳わからない本」だと見なし、そのように分類し、仮置するなり、売却するなりする
その際の注意、ステージは「訳のわからない本であると解釈した自分を知った」というメタ認知であり、メタ認知であることをどこかに記録しておかないと「訳のわからない本であると知った」に記憶が改ざんされる恐れがある。
読書体験を通じて日頃意識しなかった認識の矛盾に気づいて、その矛盾を解消する思考を手に入れたと自覚されたのであれば、それで知ったといって良いのではなかろうか。自身の判断や思考のどこに矛盾が潜んでいるのかは、体験に於いて初めてわかることであるし。かりふぁ.icon