画家ベイコンの生涯PARTⅠ
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退役軍人の父エディ(1870~1940)は馬の飼育調教にのめり込んでいた。フランシスは父を嫌っていたが、ペピアット、ファーソンによれば父に対して性的興奮を覚えてもいたという。 「法王をとりあげたということは、きみの父親に対する思いにもつながっているのかな?」「おれはそんな風におもったことはないよ」「でも、わからん――なにがオブセッションになるか、わからんからねえ。要するに、おれは母親とも父親ともうまくいかなかったってことだ」(デイヴィッド・シルヴェスターのインタビューに対して) フランシスは母方の祖母グラニー・サプルと気が合った。
乳母のジェシー・ライトフットが母親代わりで、絆が深かった。
生涯、喘息に苦しんだ。
そこで親父が馬の調教をしていたんだ。ちっともうまくいかなかったがね。おれがあそこで育ったのはシン・フェイン党が徘徊していたころだった。近所の家はみんなやられちまったよ。父親が「連中が今夜来ても、なにもいうんじゃないぞ」といっていたのをいつも思い出す。やっこさんはやられると思っていたんだな。木という木には、シン・フェイン党の緑と白と金の旗がはためいていてね。(1991年3月16日『タイムズ』、リチャード・コークのインタビューに対して) 1914年8月、第一次世界大戦が勃発し、エディは祖国のために戦闘に参加することを希望したが、年齢と性格から実戦には任命されず、公文書保管所で国防義勇軍関連の職務を依頼され、一家はロンドンに移った。 大都市での生活を知ったベイコンは、後年好んで大都市に居を構えるようになる。
戦後、アイルランドに戻ったフランシスは、グラニー・サプルの元に預けられた。彼女の再婚の夫は警察署長であり、1919年に組織されたアイルランド共和国軍、(IRA)のターゲットとみなされていた。祖母の家には襲撃に備えて砂袋が積まれており、いつともしれぬ銃撃戦の危険が潜む場所に住む感覚は子供のフランシスにつきまとった。また邸宅の優雅な曲線を描く一室は記憶に強く刻み付けられ、トリプティク(三幅対)に描かれる曲線はその影響にあると後に本人が認めている。 いくつかの危うい体験も経験した。ペピアットによれば、人生が追う者と獲物、侵略者と犠牲者の繰り広げる終わりなき狩猟であるという意識がベイコンの根本概念となった。
「でも、人生ってやつは暴力的なものさ。生まれるというその事実だけをとってみても、たいへん残酷なことさ。きっとその何もかもから何らかの影響を受けたと思うよ。人生は苦痛と絶望とは切り離さないものなのさ」
ベイコンの死後、次のような逸話が発表された――父親がしばしば馬丁に命じて少年フランシスを鞭打たせていたという。ペピアットは「誇張がある」と指摘しているが、父は息子を「男らしく」させるために喘息の発作を引き起こす馬や犬とともにキツネ狩りに参加させるようなことはあったという。このためか成長してからのベイコンは決して動物には近づかず、例外はあるものの、田舎を避けるようになる。
ベイコンはしばしば自己イメージを演出した。アイルランドの荒野から唐突にやってきて衝撃的な絵画を生みだした無教養の若者というイメージを造り上げ、生涯それを維持しようとした。金銭的にも文化的にも恵まれなかったという物語を造り上げ、経歴を調べようとすることを全力で阻止しので、死後もその人生についてほとんど何も知られていなかった。