生と、生の讃美者
※生の讃美者とは、イタロー.iconが便宜的に使う語。
本文では、「生を讃えに讃える何ものか」
生の罠である、食い食われ食うの「果てしもない連鎖」は、「窮極的な弾劾」(『死霊』の最終課題である「存在の革命」を実現するための「存在への弾劾」)を成り立たせないようにしている。
生の罠は、生の讃美者がつくったのか。それとも。「生」がつくりあげたのか。
「生を讃えに讃える何ものか」は、「自分のこの上ない罪と誤りを認めたくな」く、「その罠」(果てしもない連鎖)を「《食物連鎖》」だと名づけて、この「生」と「存在」の必当然的な自然のかたちのように声高く呼びつづけてきている。
ところで、「全宇宙の生と死の流れ」は、何を指すのだろうか。食い食われ食う関係だろうか。しかし、この関係はそのあとすぐに「はっきりしてきた」ものとしておかれているから、そうではない。この部分については考える必要がある。
生と、生の讃美者がいる。
生の讃美者は、生の範疇にからめとられている。
生は、生の讃美者が《食物連鎖》と呼ぶところのもの、食い食われ食う連鎖を考えつくりあげ、「窮極的な弾劾」をなりたたせないようにしている。
生の讃美者は、「罪と誤り」を認めたくないため、また「自分の生を讃えに讃えるため」、食い食われ食う果てもしもない連鎖を「《食物連鎖》」と名づけ、覆い隠し、「生と存在の必当然的なかたち」として呼んでいる。
「生」は「生の罠」をつくりあげた。
では、「生と存在のからくり」の、存在とは何か。
「生の讃美者」は「存在」、もしくは「存在」の一角ではないだろうか。
生の讃美者とは、決して「人生万歳!」と叫んでいる人のことだけをいうのではなく、《食物連鎖》を無前提に受け入れてしまっている存在全般を指しているものと思われる。