熟慮と言語化
気づき(事態の察知)を言葉にしておいた方がいい気がする久住哲.icon
いちいち言葉にしてたら時間がいくらあっても足りない久住哲.icon
明示的に言語化せずとも、すこし立ち止まって落ち着いて(gelassen)事態に気を留める習慣をつければいい久住哲.icon
そもそも我々は言葉にするときにある程度熟慮してはいないだろうか。かりふぁ.icon
そうだと思う。いや……久住哲.icon
「ある程度」がどういう意味かによるかも
批判.iconこの見出しは〈熟慮に言語化は重要か〉であって〈言語化に熟慮が関与しているか〉ではない久住哲.icon
すなわちかりふぁ.iconさんは読み違えている
この久住哲.iconの批判は非本質的ではある
「箇条書きのレイヤーについての批判」にすぎない
本質的な批判ではなくいわば「編集都合上の批判」にすぎない
「我々は言葉化の際に熟慮している」という指摘自体はそうだと思う
というのも話したい話題は保持していても、それを表現するときになぞる発話過程や筆記過程において、話題に関連する概念を日本語の統語構造の様式に従って編んでいる。かりふぁ.icon
はてな.icon質問:「保持していても」の逆接がよく分からない久住哲.icon
なぜなら以下のふたつは両立するから
1. 話題を保持することと
2. 日本語の統語論的な文法規則に則って文を作ること
批判.icon日本語の様式に沿うことは自動的に行われることであって「熟慮」とは異なる久住哲.icon
その前に
たぶん久住哲.iconとかりふぁ.iconさんのあいだで「熟慮」を定義しといた方がよさそう
理由:お互いに「熟慮」の概念が違うかもしれないから
よく分かってなくても会話を成立させられるのは文法に沿うことが半自動化されているから
概念を知らなくても、相手の意を汲まずとも、「それっぽいこと」を言える
下でかりふぁ.iconさんが書いているのはそういう「自動的な理解」のことだと思う久住哲.icon
もしもかりふぁ.iconさんが「言語化に熟慮はかならずしも不要」と主張されるなら、話は分かる久住哲.icon
知らない概念を読む聞く時も、前後の文脈である程度想像できるというのはその統語構造が所有などといった関係性を含意しているためだ。
概念を使用していても、その熟慮というか意味や性質について十分な理解をしていないときにその使用のされ方によって誤りが指摘できることがある。