点数が増加傾向にあればその人が努力していると言えるか
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点数が増加傾向にあることと、その人が努力しているという判断とを結びつける行為は、客観的だろうか? 仮に、それが客観的ではないとしよう。だからといって、テストの点数の推移をもとにした評価が客観的ではなくなるということはない。
2つの操作を分けなければならない:点数の推移をもとにして学生を評価したものと、その評価の内実を定めること、この2つは別な行為だ。
あるいは、この疑問が示唆する問題点を受け止めて、こう言ってもいい:たしかに、努力しているとは判断できないので、向上が見られるという言い方にします
この場合でも、点数の推移の上昇傾向と、その者の学力の向上とを結びつけるのは客観的ではないと言える。
なぜなら、教育者がそう判断したのは、点数の上昇傾向が学力の向上を表しているような感じがしたからにすぎないと言えそうだからだ
(五番地)直上の箇所について、点数ということだから学校でよくあるペーパーテストの類いの話と見なしたうえで。
「どのような問題が解けるようになったことで、合計点(「点数」?)が上がったのか」。私は何もしないで物理や数学のテストの点数を上げることはできない。物理や数学の勉強をしないで物理や数学の問題を解けるようにはならない。まったく同じペーパーテストを繰り返しやってれば点数は上がるだろう。数字選択式の設問があれば、そしてその設問で用意されている選択肢が四つなら、四回目で◯を取れる。
「点数」という大雑把な区切りとそこへの注視が、「点数」の上昇と「学力(理解度?)」の上昇との連関を曖昧にさせている。どの問題が解けるようになったのか、というところに話が行かないからだ。
ペーパーテストではなくレジでの袋詰めにしても、袋に商品を入れることが「できる」という大雑把な評価基準なら、みんな100点をとれる。「袋に商品を入れるとき袋の内側を商品が擦らないようにできているか(ものによっては袋がそれで裂けるから)」、「途中で袋を軽く持ちあげているか(お客さんが袋をもったとき積まれた商品が崩れないよう配慮しているか、袋が裂けたり商品が破損しないでお客さんが家まで持って帰ることができるのが袋詰めのゴールだから)」など、「袋に商品を入れることができる」という行為を細分化していけば、点数にバラつきが出る。或る者の「学力(理解度)」が変わらなくてもその者の点数を下げることはできる。
とりあえず、「点数が上がった」という事象の、外見の「中身」ーーと言うより、その事象とその事象を取り巻いている諸々の事象が織りなす全体像ーーへの意識がない。この場合、或る者が解いたのはどんな設問なのかへの意識がないのが問題だと思う。
このとき、「一般に、人に比べて点数の伸び率が高い人に対しては、他の人に比べて学力の向上傾向があると判断されるものであるから、私もそれに習い、そう判断した」と言うことができる。すなわち、自分の印象や感じを判断基準とせず、常識を判断基準とする方法がある
だが、それが世論だ、それが常識だという判断は、その教育者の世間や常識に対する印象や感じに基づいてはいないか?じゃあアンケートを実施する……?